#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

幕開けよ!未知なる時代が 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期1話『新しいトキメキ』

 カメラや写真の中に映る世界は、その映像の撮り手によって恣意的に切り取られた世界になるはずだが、本当はそこから少し歪んだものとなってしまう事の方が多い。

 なぜなら、そうした映像の中には、それを撮影するレンズが映り込むことは絶対に起こりえないからである。

 

 

 『Love the Life We Live』では、映像を撮影する側、スクールアイドルを応援する人間までもが映像に取り込まれることになったが、あくまでもこれがイレギュラーなのであり、スクールアイドルのステージを映像で見るとき、そこにカメラを持つ高咲侑の姿が映り込むことはないのである。

 

 ライブに現地で参加する事と配信で参加する事の違いはこうしたところに現れるだろう。配信による視聴は、視聴者が自由に視点を動かすことが出来ないのである。文字通り、カメラのレンズを他者に預けているのである。

 しかし、そもそも配信という環境が、見たい場所を自由に見るという前提のもとに構成されていない以上、そうした発想が生まれるケースは珍しいものだろう。

 

 現地にいれば、私たちはステージのどこを見るか、誰を見るかという選択権が与えられる。ステージを撮影するカメラと、カメラを構えるスタッフの存在も目に入ってくる。

 しかし、画面の中の情報のみに限定された表現媒体には、そうした選択権もなければ、その映像を映すレンズの存在も意識されることはない。

 

 こうした事を意識しながら、アニメ虹ヶ咲スクールアイドル同好会Secondseason1話『新しいトキメキ』に触れていこうと思う。

 

 

 

 

1.嵐珠と同好会の『スクールアイドルフェスティバル』

「誰かに支えられなきゃパフォーマンスもできないアイドルなんて情けないわ」

 

 嵐珠視点で、彼女の行動を整理すると、歩夢と近しいものであることが分かる。スクールアイドルを見て、その姿を見て自分もスクールアイドルを始めたいと思ってスクールアイドルを始めるという点は、1期の『DREAM with You』と全く同じルートを辿っていると言っていい。

 しかし、歩夢は支えられることを前提としている点、嵐珠は自立している事を理想とする点において真逆の主張を掲げる訳だが、なぜこのような差が生まれたのだろうか?

 

「スクールアイドルフェスティバルの動画を見たの」

 

 ここで嵐珠が見た動画についてだが、お台場にいてスクールアイドルフェスティバルに参加した人間と、それを動画配信でみた人間とではかなり認識にズレがあるように思われる。

 

 まず、嵐珠がスクールアイドルフェスティバルについて語るシーンだが、切り抜かれているのはステージの上だけであり、しかも『夢がここからはじまるよ』については触れられていない。

 

 端的に言えば、彼女の見た映像には、スクールアイドル及び、ステージの上でパフォーマンスをする人間は映っていても、それを見ている人間は映っていない。

 なぜなら、その映像は客席側から撮られたものであるからだ。侑を代表とするようなスクールアイドルのファン側の人間は、カメラを持つ側の人間であると同時に、映像の中に登場しない人間である。

 

 だから、嵐珠にとってスクールアイドルフェスティバルとは夢を与えるものであったが、現地にいた人間と違い、スクールアイドルを支える人間に焦点を当てたものではなかったのである。

 

 逆に、同好会オリジナルメンバーを含めた、当日お台場にいた人間は、スクールアイドルフェスティバルが『好きって気持ちがあればだれでも参加できるお祭り』であることを知っているし、ライブに参加するときは、隣で同じように参加している人間がいるのが嫌でも目に入ってくる。

 虹ヶ咲の生徒は、様々な部活や同好会の尽力でそのイベントが成立している事を知っている。

 知ったうえで、それぞれの在り方でスクールアイドルフェスティバルに参加している人間が数多くいたし、そうしたあり方は「スクールアイドルを支える」と言い換えることが出来た。

 

 

 

 このように、スクールアイドルフェスティバルにおいて、その場にいた人間にとっては、さも当たり前のように「スクールアイドルを支えるファン」というものが存在しているが、それを「ファン視点の映像」で見ている嵐珠の視点に、そうしたものは存在しない。

 レンズ自身を映すことのできるレンズは存在しないのである。*1

 

 彼女の世界にあるのは、スクールアイドルのステージと、それを見ている嵐珠自身だけ。映像を見ている嵐珠がエールを送っても、サイリウムを振っても、奇声を上げたり、ブーイングを入れたとしても、それが画面の中のスクールアイドルに影響を及ぼすことはない。

 

 

 

 嵐珠と同好会が思想として相容れない事の根底には、このような認識の差があるように思われる。

 

 

2.「支えてもらう事」という軸から見る、シリーズにおける虹ヶ咲の立ち位置

 嵐珠と同好会の認識のズレの根底にあるものを探っていったが、ではこうした認識のズレによって生まれた、同好会にとって対立軸となる思想が間違っているかと言うと、全くもってそういうわけでもない。

 

 2021年放送の『ラブライブ!スーパースター!!』において、同じく「嵐」を冠する*2千砂都が、かのんが「支えられなければ歌えない」という状況を打破しようとするエピソードがあった。

 

「それはよくない事なのですか。仲間がいるから歌えるって、素敵なことだと思いますけど。」

「私もそう思ってた。でもね、それって本当に歌えることになるのかな。ずっと、今みたいな不安は消えないんじゃないかな」

 

「誰かを支えたり力になるためには、ちぃちゃんが頑張ったみたいに、ひとりでやり遂げなきゃいけないんだよね」

 

 スーパースター!!で、かのんがトラウマを乗り越えられた鍵は、歌えなかった小さいころからずっと持っていた「歌が好き」という気持ち。

 「大好き」という気持ちを武器に自分1人で自分のステージを完成させるという、嵐珠の主張をそっくりそのまま描いたような話がほぼ半年前に存在しているのである。

 

 

 スーパースター!!だけには留まらない。サンシャイン!!では2期8話と9話『HAKODATE』『Awaken the power』、1年生が上級生の力を借りずにライブの企画・準備を執り行うというエピソードが描かれ、最終的に劇場版で描かれた「新しいAqours」とは、今まで自分たちを支えていた人たちが去ってもなお、その人たちとの経験を元に既に形作られた自分自身の力でステージに立つというものだった。

 

 

 また、『夢がここからはじまるよ』と同じくスクールアイドルではない人間すらも参加して1つの歌を披露する無印ラブライブ!劇場版の『SUNNY DAY SONG』でさえも、ライバルであるA-RISEや、後輩である妹2名の歌声すら存在しない。

 ライブで高咲侑役の矢野妃菜喜氏が参加した『夢がここからはじまるよ』とは違い、『SUNNY DAY SONG』ですらも、μ'sの周りにいる人間は、μ'sの舞台装置でしかない。穂乃果は「スクールアイドルみんなの歌」であると語るが、その「スクールアイドル」という言葉も、劇場版においては「限られた時間の中で精いっぱい輝こうとする」ものであると定義されており、結局はμ'sのステージでしかない。*3μ'sのファン及び、μ'sを支えてきた人間は曲中に登場こそしていたが、彼女たちが存在しなくとも『SUNNY DAY SONG』は成立しうるのである。

 

 

 このように見ていくと、嵐珠の主張はラブライブ!シリーズの中では自然な発想であり、むしろそうした主張と対比軸に置かれる同好会の主張がイレギュラ―なものに見えるが、しかしこのイレギュラーさこそが、シリーズの中で虹ヶ咲のみが持つ特徴を端的に表しているものであるだろう。

 

 無印ラブライブ!、サンシャイン!!、スーパースター!!に共通する事項として、物語の中心にいるのはスクールアイドルであり、それを支えるファンの姿は描かれこそはすれど、直接ファンが物語を動かす描写はない。

 もちろん、スクールアイドルの中だけで物語を完結させることはできない以上、外部の人間の助けによって困難を乗り越えるシーンは多い。無印2期9話『心のメロディ』、サンシャイン!!1期3話『ファーストステップ』、6話『PVを作ろう』、2期3話『虹』、2期7話『残された時間』、2期13話『私たちの輝き』、劇場版ラブライブ!サンシャイン!!『Over the Rainbow』、スーパースター!!1期3話『クーカー』、12話『SONG for All』のように、そうしたエピソードは少なくないが、物語を支えるファンの姿は描かれたとしても、スクールアイドル以外の人間が自身の決断によって物語を動かしていくことはなかったはずである。*4

 

 それに対し、虹ヶ咲の主人公は、スクールアイドルとしてステージに立つことはない。しかし、そんな侑/あなたの決断で物語は進行していく。スクールアイドルフェスティバル及び、『Love the Life We Live』の趣旨から汲み取ると、これは「侑/あなたがスクールアイドルでないこと」に意味があるのではなく、「そもそもスクールアイドルであるかどうかがあまり重要ではない」事が軸になっているのだろう。

 

 

 もう少し掘り下げるなら、歴代スクールアイドルは皆学校の代表だった。μ'sは音ノ木を廃校から救った立役者であったし、Liella!は結ヶ丘で最も結果を残した代表、Aqoursは浦ノ星の最期の希望であった。

 

 しかし、虹ヶ咲のスクールアイドルが虹ヶ咲学園の代表かと言われると、他シリーズ程の説得力はないだろう。

 そもそも全員が独立しており、纏めようとしても「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」という名称しか存在しない事、アニメ、スクスタ共に、ステージに立っているのが仮に同好会の部員でなかったとしても、観客はそれを「虹ヶ咲のスクールアイドル」として認識している点、虹ヶ咲としてラブライブに出ようとした優木せつ菜が失敗している点等を考慮すると、彼女たちが虹ヶ咲の代表なければいけない理由は希薄である。*5

 

 むしろ、虹ヶ咲の物語のマクガフィンとなるスクールアイドルフェスティバルに参加しているのは、虹ヶ咲のみに留まらない。スクスタでは音ノ木や浦ノ星、アニメでは藤黄や東雲といった、他校の生徒が参加しており、作中でも、彼女たちが学校代表として参加しているような描写は見受けられない。

 

「スクールアイドルフェスティバルは好きっていう気持ちさえあれば誰でも参加できるお祭りにしたいんだ」

 

 学校の代表としてステージに立つ他作品と違い、「好き」代表、「夢を追いかける人」代表が物語の方向性を決定づける決断をするといった構成となっている事が分かる。

 そして、そうした「好き」という気持ちや「夢を追いかける」という行為は、スクールアイドルだけが持っているものではない。

 既存シリーズでは、学校の代表であるというテーマを背負っていたが、虹ヶ咲はそうした性質を持たない事から、物語の中で焦点が当たる人間が必ずしもスクールアイドルでなければいけないわけではない。

 

 物語のテーマに対して学校という帰属先を使用しない事によって、「好き」「夢を追いかける」という、スクールアイドルの普遍的なテーマをその中だけで完結しない描き方で描くことによって、スクールアイドルの外側まで拡張する。

 

 これが、シリーズを通してみたうえでの、虹ヶ咲の特徴であると挙げることができるだろう。

 

 

3.『Queendom』と『Eutopia』を「どんな人間が見ているか」の違い

 今回の本題である。

 結論から述べると、『Eutopia』は、受け取り手がどう思うにせよ、少なくとも作り手は嵐珠の圧倒的なパフォーマンスを見せる意図で作ってはいない。

 むしろ、1話全体の展開を通して、嵐珠の『Eutopia』は、本来の彼女の得意分野が活きないように、視聴者、特に侑にとってあまりトキメかないような視点に誘導されているのである。

 

 スクスタの『Queendom』と比較していきながら見ていこう。

 まず、スクスタ20章『スクールアイドル同好会VSスクールアイドル部!?』で初披露となった『Queendom』だが、20章を通して私たちが嵐珠に関して得られる情報は、かすみ等嵐珠をよく思わない同好会メンバーによる一方的な評価によるものと、話が拗れて平行線となっている状況での嵐珠との対話、そして、『Queendom』のライブMVのみである。

 次にこの曲が披露されたのは、28章『ランジュの想い』。この間で嵐珠の人となりが数多く描写され、そうした中で同好会のメンバーも嵐珠を見る目線が、彼女を理解しようとする目線に変化しつつあり、それによって、その『Queendom』は今までとは全く違うパフォーマンスのように見えた。

 

 ここで注目したいのは、20章から28章の『Queendom』の違いを産み出しているのが、結局は嵐珠をみている人間がどのような目で彼女を見ているかという事である。

 まず、20章時点では、基本的に私たちにとって嵐珠は未知の人間だ。また、「圧倒的である」語られる『Queendom』のMVも、ファンの間でそこまで熱烈な支持を獲得してはいない。エマが「スクールアイドルとは違う」と発言しているように、そもそも初見で万人を納得させる『CHASE!』のような構造で作られてはいないのである。

 

 では、なぜ圧倒的なキャラクターである嵐珠の『Queendom』がこのような構造になっているのだろうか?

 それは、『Queendom』を見て、物語を経た後の私たちが彼女にどう向き合っていくかの過程に鍵がある。

 

 まず、前提として、20章の物語を流し読みしただけでは、大半の人間は『Queendom』にトキメかないだろうし、彼女の人となりを理解することはできないだろう。となると、読み手の脳内には疑問が生まれるはずだ。「この、よくわからんライブをするよくわからん人間は何者なのだろう?」と。

 疑問が生まれても、それを解く鍵はその時点では20章の中にしかない。だから、私たちは嵐珠の人となりを知るために、彼女の言葉の隅々にまで気を使って読み込み、『Queendom』のMVも注意して何回も再生する事になるだろう。

 

 さて、こうして私たちは、疑問を解消するために、彼女の言葉に耳を傾け、パフォーマンスを注視する事になるわけだが、こうして嵐珠の内面に踏み込もうとしている人間こそが、嵐珠の最も得意とする相手であると言っていい。*6

 文字通り私たちをこちらへ誘うような仕草に、脚や胸元といったつい注目してしまうような場所を強調したダンス、衣装。一度自分に注目した相手を、まるでブラックホールのように一気に引き込んで離さない。

 

 28章で、20章時点では全く関心を示さなかったエマやかすみ等に『Queendom』が響いていたのも、彼女たちの関心が嵐珠の方に向いていたからである。同じ叫び声でも、吹き飛ばすように押し寄せてくる『CHASE!』のそれとは違い、『Queendom』の叫び声は、他の音が聴こえなくなる中、彼女の声だけが響き、それによって吸い寄せられるように目が離せなくなってしまうという性質のものである。

 この性質は楽曲がリリースされフルが公開されるまで伏せられている、非公開部分を聴けば印象がガラリと変わるギミックようなものであったが、20章時点でも、彼女のそうした叫び声は十分すぎるぐらい汲み取ることが出来る。

 

 逆に、同好会のメンバーが彼女に対して無関心なままでいれば、28章の『Queendom』が同好会を魅了することはなかっただろう。

 

 

 

 このように、『Queendom』は20章時点で、この曲が圧倒的なパワーを持つ曲として受け止められるように、読者を誘導するギミックが張り巡らされていたわけだが、『Eutopia』はその真逆である。

 アニメ第1話は全体を通して、視聴者が嵐珠をもっと知ろうとする視点に立とうとしないように誘導しようとしていた。

 

 まず、侑が嵐珠にトキめいていないのである。正確に言えば、せつ菜の『CHASE!』のように、侑が嵐珠から何かを受け取ったり、嵐珠に何か影響されたりといった変化もなく、またせつ菜の叫び声と炎の中で夢中になる彼女の姿はない。

 

 単純な映像に魅了される視聴者もいただろうし、通行人が立ち止まり拍手も巻き起こっているが、結局それは嵐珠本体のスペックが高すぎるからに過ぎない。

 嵐珠がなにかを叫んでいて、そしてそれが私たちにとって受け取るべきものであるなら、侑が嵐珠のライブに圧倒され、何かを感じ取る描写が入るはずであるが、そうした描写がない以上、私たちは「侑が何を感じたのか」に想いを馳せることもない。なぜなら侑は何も感じていないからである。

 

 そして、極めつけは、物語の最後のシーンである。嵐珠が自分の主張を一通り述べた後、同好会と袂を分かつことになったが、そのシーンで衝突が起こらなかったのである。

 言ってしまえば、話が丸く収まったわけだが、こうなると視聴者視点は、話が丸く収まり、衝突も起こらず、お互いにお互いを理解し解決したかのような感覚を覚え、理解した気になって満足してしまう訳だが、果たしてこんな気分になった視聴者が嵐珠の事を今以上に知ろうという気持ちになるだろうか?

 

 

 「分からないから理解したい」という欲求を産み出すことによって、『Queendom』は視聴者を嵐珠の得意な領域に引きずり込んだ圧倒的なパフォーマンスとなったわけだが、「分かった気になって満足した」アニメの描写は、視聴者を嵐珠の得意分野とは正反対である、彼女が最も苦手とする分野、無関心へと誘うものである。

 

 

 さらに追加して言えば、ライブ後に嵐珠と同好会が主張をぶつけ合うシーンだが、そのシーンはせつ菜(と栞子)だけがその輪の中にいないのである。

 1期では、自分の大好きが仲間にすら届いておらず、相反するあり方を押し付け誰かを傷つけていた事と向き合うことになったからこそ、他者に対して誰よりも無関心でいてはいけない、無関心でいる事ができないはずの彼女が、同じように相反するあり方同氏がぶつかり合う場から1人だけ外されている事は、せつ菜が侑と同じく生徒会と同好会の両立が難しいことを示す布石の意味もあるとはいえ、現時点で視聴者含め同好会の嵐珠に対する無関心を現す描写であるともいえるだろう。*7

 

 

 このように、『Queendom』と比べて『Eutopia』は嵐珠の内面に寄り添った描写でもないし、彼女を魅力的に見せる意図も薄い楽曲だと言えるが、ではなぜこのような差が生まれるのだろうか?

 

 

 それは、まさに1期を終えた高咲侑と、1st seasonを終えたあなたの経験値の差だろう。

 アニメとスクスタの1期は、共にスクールアイドルフェスティバルの開催を目標として進行していく物語だったが、大きな違いとして、栞子の存在が挙げられる。

 スクスタのスクールアイドルフェスティバルは、栞子が加入することで何の問題もなく大成功を収めたが、アニメのスクールアイドルフェスティバルは、侑の実力不足、及び彼女が途中で諦めてしまった事によって、お世辞にも成功とは言い難い。

 

 侑/あなたにとって、「あきらめない事」は歩夢と栞子から受け取った概念であり、それが欠けてしまったことで分かりやすく影響が出てしまった訳だが、同じようにアニメ1期で栞子が欠けたことで「あなた」にあって侑にないものが、「他の人の大好きを大切にする」事である。

 

 スクスタの方では、『LIKE IT! LOVE IT!』のキズナエピソード及び、せつ菜と栞子の衝突の件から始まる一連のエピソードの中で、「あなた」は「他の人の大好きを大切にする」事が求められ、それを乗り越えてスクールアイドルフェスティバルを開催したのである。

 

 しかし、アニメの方ではそういうわけでもない。確かに、せつ菜は同好会に復帰した。しかし、それはせつ菜にとって、「他の人の大好きを大切にする」ことができるようになったのは、ある意味では結果論でしかない。侑が与えたのは、せつ菜の大好きを貫いても受け止められるだけの器でしかなく、それは結局は「せつ菜ちゃんの歌が聴きたい」という彼女のエゴでしかない。

 確かに、そうしたエゴはせつ菜にとっては救いではあるし、彼女の物語の中で絶対に必要なものではある。しかし、侑にとっては、自分のエゴを理由にせつ菜に居場所を与えただけであり、侑自身が「他の人の大好きを大切にする」というテーマに向き合ったかと言われると、そういうわけではない。

 

 

 結局、アニメの嵐珠の描写がそのようなものだったのも、アニメを描く軸である高咲侑の視点が、「あなた」と比較して栞子に影響されたものが明らかに欠けており、その結果、嵐珠の内面及び、一番の得意分野から、敢えて遠ざかるような演出となっている。*8

 だからこそ、これから物語が展開していく中で、仮に嵐珠自身が変化する事がなかったとしても、嵐珠を見る侑の目線はどこかで変化していくのだろうなということが予想される。

 

 

その他雑記

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 初 手 重 な る ス マ ホ

 

 

 「掛け合って響く音程」「響きあわない音程」との文字が見える。白紙の楽譜も見えるため、課題やりながら寝落ちしてそう。

 となると、赤点とったのは音楽科の試験かな?

 また、この物語が「掛け合って響く音程」だけじゃなくて、「響きあわない音程」もテーマになるお話なのは言うまでもない。

 

 

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 私3年生ですって顔してる愛さん。たぶん3年のテストやってもエマと果林より成績よさそう(ホンマか?)

 

 

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 こちらは、スマホ落としそうでヒヤヒヤする3年生(14歳)

 いちいち仕草が可愛いので、萌え萌えブヒブヒできる。

 こんな顔して、スクスタで実装された時は大変すばらしいボディラインがくっきり見える衣装でぐるぐるして遊べるので、完全にベイビーちゃんになってしまう。

 

 

 

 

 1期のオフィシャルブックで、田中仁氏が「メンバーの日常を切り取った話を作りたい」と、物語としての特別さよりも、彼女たちの等身大の女子高校生としてのイメージを大事にしていると言及があった。*9

 実際、クライマックスで「バン!」決めたくなる時も抑えたというコメントもされており、特に3話『大好きを叫ぶ』等は顕著だと思う。

 だが、嵐珠の語り口にあまりそうした女子高生らしさを感じず、他シリーズのクライマックスに見られるような、決め台詞*10のような印象を受けた。

 この感覚が間違いではなければ、現時点で嵐珠はリアルな女子高生としてではなく、人外、化け物として描かれていたりするのかなと思った。

 

 

 

 

 私はテレビアニメ1期が最初どうもしっくり来ず、かといってスクスタは大好きなので虹ヶ咲とどう向き合っていくか迷った瞬間があった。しかし、自分がスクスタを「あなた」として徹底してロールプレイを貫いているのに対し、アニメに対しては前2作品と同じように、作品の外側から観賞していたことに気づいた。

 私がこのシリーズに魅かれた理由は、虹ヶ咲スタートから20年頭までの、虹ヶ咲が全く注目を浴びていなかった頃の、「自分が支えないと誰も彼女たちを見つけてあげられないんだ」というアンダーグラウンドな感覚と、「あなた」として彼女たちを支えるというコンテンツのあり方が噛み合った事が根底にあり、それは虹ヶ咲が他3シリーズと肩を並べられるようになった今でも変わらない。

 

 なおかつ、自分はどこまで行ってもラブライブ!シリーズのオタクで、京極氏、酒井氏、花田氏、雨野氏の描く物語が好きで、等身大の言葉じゃなくて劇として描かれる大げさな台詞が好きで、そうした台詞にリアリティを持たせるための作劇や演出が好きなのだ。

 アニメ虹ヶ咲が大切にした彼女たちの存在そのものがリアルであることよりも、フィクションでしかない存在をどうしてもリアルだと思い込ませてしまうような演出が好きなのだ。

 

 そういう人間だからこそ、私は他シリーズと同じようにこの作品を受け取るだけでは、きっとこの作品を楽しむことが出来ない。アニメ虹ヶ咲を視聴するときは、他作品と違う受け取り方をした方がきっと私はこの作品を楽しむことができる。

 

 幸いにも私は、サンシャイン!!の「自分が変われば世界の見え方が変わる」や、スクスタで宮下愛の『楽しいの天才』を履修済みだ。アニメを今まで通りの見方で見て楽しめなかったなら、別の見方で見れば楽しめるかもしれない。

 さて、そんな「別の見方」だが、結局そんなものは、自分のルーツを振り返ればやることは同じである。今まで「あなた」として虹ヶ咲を追ってきたなら、アニメも「視聴者」としてではなく、「あなた」として受け取ればいい。

 

 ……という事は、私自身が高咲侑になればいいのだ。

 

 気づいてからは簡単だった。

 アニメは侑視点で視聴し、侑との感覚に齟齬があれば適宜擦り合わせを行う。

 例えば、「ラブライブなんて出なくていい!」の直後に、ラブライブに対するフォローを入れる描写によって、そこまでの盛り上がっている流れがぶつ切りにする描写であり、最初は印象があまり良くなかった。しかし、それはあくまで視聴者視点であり、侑視点なら、強い言葉に一瞬気押しされるせつ菜を目の前にしたら、一旦フォローを入れるのはとても自然な流れである。

 

 私にとって、アニメ虹ヶ咲の1期は今では大好きな作品の1つだが、それが大好きになるまでに、このように侑と自分の感覚の擦り合わせを経た経緯があった。

 しかし、アニメ2期1話は、そうした擦り合わせを行わなくともスッと自分の中に入ってきた感覚がある。

 これは、自分が1期以上に侑とのシンクロ率が高くなっているからなのか、またそもそも表現方法が変化しているからなのか、それとも単純に同好会のオリジナルメンバーより嵐珠の方が自分にとって受け取りやすいからなのかは分からない。*11

 しかしいずれにせよ、1話を終えて充実できている今の自分が、虹ヶ咲の「あなた」としてみんなにトキメいているんだと思うと、自分の追いかけ方が間違ってなかったと思って、とても嬉しい。

 

 

 最後に、そんな筆者らしい(のかもしれない)トキメキポイントをひとつ。

 

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「あーあ、私たちも中学の時、来ればよかったな~」

「家から近いって理由で、あんまり考えずに決めちゃったもんね~」

「ま、結果オーライだったけどね。やりたいこと、ちゃんと見つかったし」

 

 ラブライブ!サンシャイン!!じゃん!!!!!!(椅子から転げ落ちる筆者)(流れ出す『偶然と運命』)(私が保証するーーー!!!)(『桜色の風』)(この道でよかったんだって証明したい)(きっかけはなんでもいいから一緒にトキメキを探そうよ)

 

 

 

 

 

 おしまい。

*1:語弊を産みそうなので注釈を入れておくと、何を見るかの選択権のない状態で切り抜かれた映像を見ている人間は、その映像を撮っている人間の存在や、映像の外側にあるものに想いを馳せることは難しい、という話

*2:高坂、高海、高咲で「高」の系譜のようなものが字面だけ見ればスーパースター!!で途切れることとなったが、これ以降は「嵐」の系譜なのかと勘繰っているところもある

*3: 筆者がラブライブ!フェス及びカウントダウンライブにおいて、後輩たちと共にこの曲が披露されるのではないかという予想に対して懐疑的だったのは、このように『SUNNY DAY SONG』が「スクールアイドルみんなの歌」であるのはあくまでもμ'sの物語内での事であり、単にそれだけの文脈に則ってこの曲が披露された場合、後輩たちがμ’sの引き立て役に成り下がってしまうからである。

 何らかの新しい物語によって、この曲の「スクールアイドル」という像が定義され直さない限り、『TOKIMEKI Runners』と『LIVE with a smile!』以外の曲で、グループの垣根を超えることは起こらないだろう。

*4: サンシャイン!!に関しては、微妙なラインである。ファンの中に渡辺月というサンシャインに対する❝月❞でありカメラを持つ役という示唆的すぎるキャラクターがいたり、そうした「Aqoursを認識し影響されていく」ファンの姿をNo.10として描くあたり、シリーズの中でも虹ヶ咲に近しい作品のように思われる。

 スクスタでも、12章『前しか見えない!』において、Aqoursの『Wake up,Challenger!!』が虹ヶ咲の物語の転機として物語に組み込まれ、「前を走る誰かに影響されて今の自分がいる」という侑/あなたに置換できる内容が描かれたりもしている。

darkphoenix505pianoles.hatenablog.com

*5:もちろん、『夢への一歩』『コンセントレイト』は例外ではあるが、どちらも学校名を背負う事となっている理由はその曲自体の特殊性に依るものであり、虹ヶ咲のスクールアイドルが背負っているのは、基本的には「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」の範囲でしかない

*6:1stseasonを支え応援し続けてきた「あなた」はそういう人間なので、当然受け取るファンも同じように相手に寄り添うことが出来るという前提でリリースされている作品だと思う。しかしライターが想定していたよりも「あなた」として誰かに寄り添おうとする人間が少なかったのかもしれない。キズナエピソードも読まずにライブに来るような人も多く、「あなた」としてのレベルで「仲間でライバル」になれるような猛者同士で「あなた」レベルを競い合うような世界を想像していた分、そうした人間が少ない事を実感せざるを得なかったのが残念である。

*7:中須かすみもせつ菜と同じテーマと向き合うことになったが、スクスタの2ndseasonでの反応を見れば分かるように、相容れない人間を受け入れる事は、せつ菜にはできてもかすみには難しいだろう

*8:栞子がいなければ嵐珠の本当の魅力が理解されないまま、という構造が、そのままスクスタ17章『みんなの夢のために ー後編-』の、歩夢がいなければあなたの事が誤解されたままである事と重なる。やはり持つべきは幼馴染である。

*9:このあたりは、他シリーズの花田十輝氏、スクスタの雨野智晴氏とは真逆だと思う。

*10:穂乃果の「やりたいからです!」や、千歌の「どこまで続くのかな」や、かのんの「私、始まりの瞬間が好きなんだ」等

*11:1期も歩夢関連のエピソードや、「あなたが私を支えてくれたように、あなたには私がいる」といった描写も特に擦り合わせを行っていないので、自分とキャラクター相性がいいとスッと入って来やすい構造にはなっていると思う。