本当に書くことがない回だ……。5話みたいに萌え萌えしていい?
虹ヶ咲のスクールアイドルは私のポケモン
ニ、ニジガクGO!!!???
露骨にポケモンGOに寄せてきているので、虹ヶ咲というシリーズが如何にポケットモンスターというコンテンツと親和性が高いか解説したいと思う。
まず、舞台に立つものと立たないものの間にある種の主従関係があることだ。
『ポケットモンスターSPECIAL』10章において、主人公のブラックが手持ちポケモンとトレーナーの関係について「監督と選手」であると発言していたが、対等な関係でありつつも指示する側とされる側の人間を表す表現としてこれほど納得感のあるものはないだろう。
あなた/侑と同好会のスクールアイドルの関係性は、このようなトレーナーと手持ちポケモンの関係性に近いと言える。舞台に立つスクールアイドル1人1人を育成し、絆を重ね、共に物語を紡ぎあげていく。そして、紡ぎあげた物語を背負い、一番近くにいる侑/あなたとの繋がりを感じながら舞台に立つ。
「キミに決めた!」とポケモンを繰り出すように、私たちはスクールアイドルをステージに送り出し、共に戦っているのである。
そして、そんな私たちとポケモンの関係性は、夢という軸において特殊で濃い関係性を構築することとなる。
他者の夢や目標が、重ねることなくそのまま自分自身の夢であり目標として存在する。それが、トレーナーとポケモンの関係性である。
例えば、サトシの夢は「ポケモンマスターになること」であり、その過程で現在ポケモンワールドトーナメントでの優勝を目指して走り続けているわけだが、サトシのそうした夢は、ピカチュウやルカリオらを始めとした彼の手持ちポケモンによってしか実現しない。チャンピオンであるダンデとサトシが試合を行いサトシが勝利した場合、それは「サトシの勝利」と扱われる事になるが、実際にダンデの手持ちポケモンを打ち倒すのはサトシ自身ではなく、サトシの手持ちポケモン達である。
このように、サトシは究極的に言えば自分自身の夢を自分の手で叶える事はできず、手持ちポケモンに託すしかないのである。
そして、ポケモンはこのように夢を託されるわけではあるが、ではポケモンにとってそれが他者の夢であるかと言われるとそうではない。サトシがポケモンマスターになる事がピカチュウにとって他人事になるはずはなく、むしろサトシと運命共同体であるピカチュウにとって、ポケモンマスターになるサトシと共に頂点に立つ事、サトシの前に立ち塞がるライバルを自分の電撃によって打ち倒すことが1番大切な夢であり、ピカチュウをピカチュウたらしめる在り方そのものだと言っていい。
これは決して利害の一致などではない。サトシの夢と、サトシの手持ちポケモン達の夢は、切っても切り離せないなどという表現など当てはまらない程に完全に同一の物なのである。
そして、こうした関係性は、スクールアイドルフェスティバルを軸とした侑やあなたとスクールアイドルとの関係性に等しい。
スクールアイドルフェスティバルは侑やあなたから産まれた夢ではあるが、あなた/侑がスクールアイドルとしてステージに立つことはなく、スクールアイドルを頼り、スクールアイドルに託すことでしかスクールアイドルフェスティバルは実現できない。
そして、それを託されるスクールアイドルたち、特にその中でも歩夢は、その託された夢を自分自身の在り方、自分自身の夢として掲げるような物語を紡いでいるような、運命共同体のような関係性を作り上げている。
虹ヶ咲は他作品とは違い、ラブライブという競技の場に出場しない選択をした。だからこそ、すべてを懸けた勝負と言われてもピンと来ないかもしれない。しかし、むしろそうした特別な舞台ではなく、ありきたりな日常の中でそのような関係を構築していることが重要なのである。
何気ない日常の中に、同好会のスクールアイドルがいて、彼女たちの1人1人と一緒に同じ景色の中で生きて、同じ夢に向かって一緒に歩んでいくその姿や、そうして紡いだ物語の中で自分自身やスクールアイドル、ポケモンたちの生き様が確立していく。
ポケモンと出逢い、スクールアイドルと出逢い、そうして生きてきた道が自分自身になる。自分自身という道を、パートナーと共に同じ景色を見ながら歩く。
そうした部分において、この2つのコンテンツは共通する部分が多い。
ゴールはきっとまだだけど もう死ぬまでいたい場所にいる
隣で 君の側で 魂がここだよって叫ぶ
泣いたり笑ったりする時 君の命が揺れる時
誰より近くで 特等席で 僕も同じように息をしていたい
キラキラ繋がって 虹色があふれる
出逢えた軌跡は 何より宝もの
大好きが咲いている 僕たちのドリームワールド
一緒に叶えよう とびきりの明日へ行こう
この先何があっても一緒に叶える夢がいい。一緒に見上げる虹がいい。(これ何の話?)
誰に対してのLoveU?
さて、9話では嵐珠を同好会に引き込みたいと思う気持ちに関して、同好会内でもだいぶ温度差があったように感じられていた。
ミア、栞子、エマはともかく、他のメンバーに関しては嵐珠が同好会に加入しようがするまいがあまり影響はなく、特に果林やせつ菜、かすみ、歩夢、彼方に関しては、他の誰でもない嵐珠という人間を必要とする理由があまり見当たらない。
1年生も、他の誰かが嵐珠を必要としているから同調している節があり、特に璃奈はミアを気にかけてはいたが、逆にミアがいなければ嵐珠は誰にも引き留められることもなく香港に帰国していただろう。
さて今回、そんな嵐珠が同好会との距離を縮めるエピソードではあったが、それにも関わらず今回嵐珠が侑と会話していないのである。
このように、同好会という場所において嵐珠が語るとき、嵐珠の指す「同好会」という言葉の中に侑は含まれていない、スクールアイドルしか含まれていないし、嵐珠が侑に問いかけた問いはどれも現状未消化のまま終わっていることが分かる。
But through the pain, I'll leran to love again 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期9話『The Sky I Can't Reach』 - #てつがくのドンカラス
前回の内容でも触れているが、現状嵐珠と侑との関係性から生まれる物語が一区切りついたとは言い難く、未だにまだ何かを残している要素はあるのだろう。
そのように考えると、今回挿入された『Love U my friends』も、既存の概念をそのまま当てはめて考える訳にはいかなくなるだろう。少なくとも、今までこの楽曲は同好会と「あなた」という関係性に焦点を当て、1人1人との物語の中に栞を挟むような立ち位置で披露されてきた。
しかし、今回は侑の曲に同好会のメンバーが歌詞をつけたとはいえ、そうした「あなた」とスクールアイドルとの関係というよりも、もうすこし広い意味で「仲間」を意識させるような楽曲になった印象を受けた。
嵐珠やミア、栞子らのように、そこまで侑と紡いだ物語が重要ではないメンバーもいて、同好会内の距離が縮まっていくエピソードに挿入されて。
そういう曲になったことで、『Love U my friends』とはいえ、その「U」は必ずしも侑に限ったものではなくなっているし、このコンテンツの中での侑の立ち位置も変化してきているのだろうなと思った。
その他雑記
歩夢の足の裏。
綺麗だね、月
うん
「月が綺麗ですね」「死んでもいいわ」という表現は、実は適切なものではない。*1
そもそも、「月が綺麗ですね」と声を掛けることは、月が綺麗だという感性を共有している事が前提となっている。
当たり障りのないことを聞いて、当たり障りのない言葉を返す。それで気持ちが通じ合っている事を確認しあうから、それは愛の告白となるのである。
だから、本当に気持ちが通じ合っている2人に本来言葉なんて必要はなくて、ましてや「死んでもいい」なんて過激な言葉は言語道断のナンセンスな表現と言わざるを得ない。
当ブログで何回か「相互限定的言語表現」と称して、その関係性の内でしか成立しない会話について解説してきた。しかし、本当にこころとこころが通じ合っている2人の会話なんて、「綺麗だね、月」「うん」というたったそれだけの情報量で充分なのである。
しずくの家の庭。
……あれ、背景似てない?(本当だったら後輩の家で何撮影してんの!?!?)