これ書くことねえ……(2話ぶり2回目)
今回の内容もスクスタの2ndseasonで履修済みのものだったため、ふわっとした思考整理が主になるような気がする。
相互限定的言語表現
屋上の例のシーンである。
このエピソードの核になるようなシーンではあるが、一度文字起こししてみよう。
果林「そう、美里さんが……」
愛「あ~あ。バカだな~。お姉ちゃんの気持ちに全然気づけなくて。愛さんなら笑顔にできるって勝手に思い込んで。でもほんとはずっと傷つけてた。」
果林「……。」
愛「愛さんどうすればよかったのかな?カリンの言う通り、そっとしておけばよかった?それとも、スクールアイドルにならなければよかったの?」
果林「そんな話、意味ないわよ。ショックなのは分かるわ。でも、オンラインライブだって近いんだから、しっかりしなきゃ。あなたのファンが待ってるわよ。」
愛「……できない。」
果林「えっ」
愛「できないよ!楽しいことを教えてくれたお姉ちゃんを私が傷つけた。そんな私がスクールアイドルなんてできないよ!」
果林「本当にやめるつもり?……わかったわ。じゃあ、代わりに私がステージに立ってあげる。」
愛「ええっ?」
果林「愛のファンをごっそり頂くチャンスだもの。きっと美里さんも私に魅了されてファンになっちゃうわね。」
愛「うぅ……嫌だよそんなの!お姉ちゃんやファンのみんなをカリンに取られちゃうのはヤダ!」
果林「でも、スクールアイドル辞めるんでしょう?」
愛「だったら辞めるの止める!だって私……私……ほんとはスクールアイドル、もっともっとやりたいよ!!!」
果林「それがあなたよ!」
愛「えっ……?」
果林「誰も傷つけないなんて、そんなこと、できる人いないわ。それでも、太陽みたいにみんなを照らせる笑顔があなたにはあるでしょ?」
愛「……!うん!」
果林「せいぜい頑張りなさい」
愛「待って!愛さんと一緒にステージに立ってほしい!」
果林「私はそういうの興味ないって言ったでしょ?」
愛「ううん。気持ちを合わせるとかじゃなくて、仲間っているかライバルとして、同じステージに立って同じ歌で競い合おうよ!私に火をつけてくれたカリンとなら、すっごいライブができる気がするんだ!だから!!!」
果林「競い合う……そんな形があるのなら面白いかもね!受けて立つわ、愛!」
愛「うん!負けないよ!」
文字起こしすると、会話が成り立っていない事が分かる。
まず自分が楽しいと思っていたことで他者を傷つけていたというテーマは1期でせつ菜を通して同じく屋上で描かれていたが、それがスクールアイドルを続けられない理由になっていた愛を引き戻したのは、「ファンを果林に取られたくない」という全く関係のない話題であった。
また、「果林にファンを取られるのが嫌だからスクールアイドルを続ける」と宣言した愛に対し、「それがあなた」「太陽みたいにみんなを照らせる笑顔があなたにはある」と応える果林だが、そこに特に繋がりは見受けられない。
「果林にファンを取られたくない」=「太陽みたいにみんなを照らせる笑顔を持っている」という図式に直せば、その繋がりの不自然さはより際立つだろう。
そして、その一連の会話から、愛と果林が競い合うという形で共存するユニット活動への繋がりもまた唐突なもののように思える。「ファンを取られたくない」という点で繋がりを見出せなくもないが、そうすると美里さんとのエピソードとの繋がりも見えず、ライブ後の描写にも疑問が残る。
似たような、よくよく見ると意味不明な会話により進行するシーンは1期にもあった。12話『花ひらく想い』での、菜々と歩夢の会話である。
類似例であり今回の内容と直接絡む内容ではないので、一部抜粋。
歩夢「だけど今は変わってきてて、こんな私をいいって、応援してくれる人がたくさんいて。その気持ちが嬉しくて、大切で。今は私の大好きな相手が侑ちゃんだけじゃなくなってきて。本当は私も離れていっている気がするの。でも……」
せつ菜「私も我慢しようとしていました。大好きな気持ち。でも、結局やめられないんですよね」
歩夢「……!」
せつ菜「始まったのなら、貫くのみです!」
歩夢(止めちゃいけない。我慢しちゃいけない。)
歩夢「そうだね、ありがとう!」
文字起こしすると、よくわからないのである。
せつ菜の語る、やめるやめないという話も唐突のように見えるし、自分たちがやりたい道に進んでいく事で、大切な人とどんどん離れていってしまうという問題に対して何の解答にもなっていないように思える。
このように、一見2人が何を言っているのかよく分からないシーンが描かれるのは初めての事ではない。
今回はこれについて少し解説してみようと思う。
そもそもなぜこのような事が起きているのかというと、原因は2つ挙げられる。1つ目は高咲侑の不在、もう1つは彼女たちが等身大の姿であること*1だ。
この作品の特徴として、台詞による説明が多いことが挙げられるが、その一因として(基本的には)主人公である侑の視点で物語が進行する事が大きいだろう。
侑は元々は私たちの分身であり、物語はその視点で進行するわけだが、これは同時に(基本的には)私たちの視点、私たちの理解はそのまま侑の視点であり理解になることを意味する。
つまり、私たちに理解のできないことを侑は理解できないのである。
そして、おそらくクリエイター側の想定する私たちの物事を理解する力は相当低い水準で設定されている事が予想される。
作品が飽和する現代において、多くの受け取り手にとって1つの作品は一過性のものになりやすく、それはラブライブ!シリーズも例外ではない。
例えば、アニメofficialブックの構成は、サンシャイン!と比較して虹ヶ咲やスーパースター!!の情報量は少し寂しいものとなっている。
それは後発作品のものには、作品内で何が起きていたのかを出来事で整理してなぞっていく、いわばあらすじを解説するページが存在しているからである。サンシャイン!にもそのようなページは無いわけではないが、ほんの申し訳程度であり、2期や劇場版に至っては時系列順ですらない。完全にキャラクターのこころに寄り添ってエピソードを切り抜く形で解説がなされており、それは読者の頭の中に物語がインプットされている事が大前提となっているのは明白である。
そもそも、アニメofficialブックを購入するのは、常識的に考えればアニメを視聴済みの人間である。にも関わらず、虹ヶ咲のそれにはあらすじを解説するページがしっかり存在してしまっているのである。
この事からも読み取れるように、虹ヶ咲のアニメを視聴している人間として想定されている中には、アニメを視聴しているのにも関わらずあらすじすら頭に入っていない層まで含まれているのである。
しかし、別にそうした層がいる事は全く不思議なことではない。所謂オタクにとっては当然のことかもしれないが、普通は同じ作品を何回も何回も視聴したりしないし、1回しか見ていない作品の記憶がすっぽ抜けていることなんてごく当たり前のことである。
もはやラブライブ!はオタクという狭いターゲットだけではなく、世界を相手にする超巨大コンテンツであり、家庭の食卓のテレビで流れている日常的にありふれた作品であり、話題を合わせるために履修しておくような一般教養であり、世界共通言語である。
行間を読まなければ伝わらない描写は基本的には排除され、映像や音響による表現は基本的には言語表現の補助的なものでしかない。
4話でも、飛行機雲やパンダのぬいぐるみ、屋上の光と影のような表現は多々存在はしていたが、それらの表現は本来拡大する必要もないし、もっとさりげなく挿入されているだけでも台詞以上に雄弁に彼女たちの心情を現してくれるはずであった。*2
「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」
(中略)
佐藤氏によれば、説明過多だと視聴者の思考が止まる。
逆に言えば、説明セリフを求める人は、映像作品の視聴時に「行間を読んで思考を働かせる」という発想が、そもそもないということだ。
彼らにとっては、具体的・明示的に描かれるセリフと、誤読が起こりようのない「記号的なテンプレ芝居」がすべてなのか?
「そもそも、なぜ文字ではなく映像で作るかっていうと、役者の発するセリフだけじゃない、醸し出された雰囲気や、言語化しにくいメッセージを表現に込めたいからですよ。
当然、観客によって受け取りかたはさまざまになるけど、それでいいんです。
受け手には“作品を誤読する自由”があるんだから。
誤読の自由度が高ければ高いほど、作品の奥が深い。
……というのは、僕の意見だけど」(真木氏)
そうした人にも届くように、分かるように。むしろ、どんな人だってラブライブ!に参加できるように、侑/あなたとしての敷居はそうした人たちが高いと感じてしまわないような水準まで下げられている事は、見ていて感じる部分も多い。
しかし、侑という人物像及び、彼女視点からの描写がこのようなものである事も、このような傾向をネガティブなものだと捉えているからではなく、単純に等身大の侑の姿を描きたかったからだろう。
侑以外の視点からの描写は、そうした視聴者にとってよく分からない物語になる事が多い。例えば、1期5話『今しかできないことを』1期8話『しずくモノクローム』1期12話『花ひらく想い』では、侑がその場にいない以上、言葉を侑に対して届ける必要はない。
こうした私たちの視点で進行しない物語は、私たちの理解を前提としない。
せつ菜の言葉は歩夢にしか届かないし、歩夢以外の人間が理解できなかったとしても、そこに何の不都合もない。
逆に、歩夢と会話しているのに、そうした言葉が侑や私たちのような低い水準の人間を意識した分かりやすいい言い回しや、過多な説明であることは、等身大のせつ菜を描く上では不自然なのである。*3
さて、今回の内容もそうした視点から読み解いていこう。
まず、愛が「スクールアイドルなんてできない」と発言しているが、この言葉を愛の心情として文字通りに受け取ってはいけない。
エピソード全体を通して聡明である彼女が、本心を自覚していないはずがない。
また、果林にファンを取られるというおよそ関係のない理由で即座に発言を撤回している事もそれを裏付ける。
では、なぜこのような発言に至るかというと、至極単純で、果林に否定してもらいたいからである。
「本心はスクールアイドルをやりたい」「自分のやりたいことが、他者を傷つけていた」という2つの要素から、愛自身が「仮にそれが傷つける事になったとしても、みんなを照らすことができる笑顔」を持っていて、「他者を傷つけるかもしれない」という可能性と「みんなを照らしたい」という願いを天秤にかけて後者が勝ってしまった事を自覚しているのである。
他者を傷つけるかもしれない。傷つけていた。その事実は、高坂穂乃果や優木せつ菜が自らがスクールアイドルを辞める事を選んでしまうぐらいに重い。
しかし、それでも、宮下愛という人間は、穂乃果やせつ菜のように自分の気持ちを押し殺して「やめる」という選択をするぐらい不器用な人間ではない。
その状況でなお、「スクールアイドルをやりたい」という気持ちと、それをひとりで背負いきれないことまで理解してしまえるぐらい、器用で、賢すぎる人間なのである。
だから、愛は果林に甘える。*4他人を傷つけるかもしれない可能性を背負ってもなお、みんなを照らし続ける在り方を肯定してほしいと甘える。およそ本心とは真逆の発言をして、「部外者のお姉さん」にバッサリ否定してもらいたいのである。
そして、果林も愛ほどではないが賢いキャラクターである。お勉強ができなかったり、ポンコツな部分が目立つキャラクターではあるが、思考能力の高さに関しては1期で描かれた通りである。
だから、宮下愛が宮下愛らしからぬ発言をした本音に気づいた彼女は、愛が「スクールアイドルをやらない」を否定するための理由作りとして、悩みとはおよそ関係のないくだらない内容で挑発する。それが、「部外者のお姉さん」の仕事である。
しかし、本心は見抜いているのである。宮下愛とは、穂乃果やせつ菜と同じ状況になった時に「スクールアイドルをやりたい」を選択できる人間なのである。
そんな事はお見通しな果林は、そんな愛の在り方を肯定してあげるよりも、愛の口からそれを引き出した方が彼女のためになると理解している。
そうした在り方を肯定してあげることが必要なら、愛は今頃侑に相談しているはずだ。侑ではなく果林が選ばれたという事は、別に肯定してもらいたいのではなく、本音をぶつけるための壁になって欲しいのである。
だからこそ、果林は、全く関係のない話で挑発するような態度を取り、愛の悩みに寄り添おうとせず、むしろ仰々しくそれを行うことで愛の本心なんか見え透けているんだと圧を掛ける。
こうなったら愛の負けである。果林にされるがままに、本心をぶちまけてしまうしかない。
そして、愛はこのように果林に感情を引き出して貰うことで自信を持てた訳だが、2人のそうした視点に立てば、競い合い高めあうDiverDivaの在り方に即座に行きつくことは、自然な流れと言えるだろう。
このように、愛は果林と共に、「傷つける可能性を孕んでいるとしても、みんなを太陽みたいな笑顔で照らし続ける」という在り方に自信を持つことができた。
だからこそ、
「笑顔になる覚悟は決まった!?」
「逃がさないわよ?」
なのである。
日陰で泣いている人間に強引に光を当て、笑顔になれと言いながら横っ面を引っ叩く。
仮にそれで笑顔になれなくて、傷ついたとしても関係ない。笑顔になるまで引っ叩き続ければいい。
それが「笑顔にする」宮下愛と、「逃がさない」朝香果林がコンビを組んで生まれた、暴力的なまでに迫ってくるエネルギーの正体なのである。
侑以外の「あなた」のこと
今回の美里についてだが、スクスタで描かれた彼女の人物像と異なる切り抜き方がされていた。愛トモの立役者であり、愛を見守るような立場で描かれた美里と、今回の愛に対してコンプレックスを抱くような美里は、一見大きく異なって見えるかもしれない、
しかし、「違う」という事は必ずしも「キャラが違う」という原因に帰結するとは限らない。
4という自然数が16に変化したとして、必ずしも4を掛けたからという理由に帰結するわけではなく、12を足しても2乗しても4は16になるのである。
この観点はスクスタとアニメを比較するうえで重要で、「キャラが違う」のか、「背景が違う」のか、「文脈が違う」のか、「視点が違う」のか……と、同じ「違う」でもなぜ違うのか、どこが違うのかは多岐に渡る。
スクスタの美里にあってアニメになかったものは、「自信」であるが、なぜそれがないのかを検討すると、それが「スクールアイドルを応援するという行為」を夢だと思えるか思えないか、というその1点に集約される事が分かる。
そして、このテーマはスクスタ2ndseasonのメインテーマであり、これからアニメで描かれていく事も十分に予想される。
この軸で変化が生まれる事から、美里を愛にとっての「あなた」として見る事もできるし、それも「あなた」が主人公になっているだけに示唆的な要素なのかなと思ったりもした。*5
その他雑記
なんでライ❝ヴ❞なんだろ……?
ま た こ い つ は
今回に関しては果林は別に本音を隠していたわけではないので、自分の在り方を押し付ける事が上手くいっていないエマってこんな感じなんだな~とすこし意地悪な気持ちになった。
『最後の一葉』だ!!!!!!
……虹ヶ咲にしては、こういう「知ってなきゃ分からない」映像表現を強調するのって珍しいな……。
*1:とはいえ、ラブライブ!の登場人物は大概超人ばかりなので、正確に言えば「等身大の超人の姿」となり、超人と交流する機会がそもそも存在し難い多くの人にとっては未知なる概念となるだろう。
*2:だからこそ、誰でも気づけるぐらい露骨なまでに強調された途切れた飛行機雲やうつ伏せのパンダを見たときには、既に大半の視聴者は追いつく飛行機雲や顔を見せたパンダが後に描かれることと、それに相当する彼女たちの心情変化を予見しているのである。
ライブ後の美里の描写を全て余計だと感じてしまう人が多い理由もそこにあり、直接描かれなくてもこころの中にスッと落とし込まれるはずの内容を、わざわざ尺を使って描いたところでそこに面白さは生まれ難いのである。
*3:せつ菜視点では、「やりたい道に進むことで大切な人と離れていく」という経験はせつ菜も旧同好会で経験してきたことである。
そんなせつ菜は、そうした在り方を我慢して身を引こうとしていたが、そんな時に「やりたいことをやってきた結果現れた、そんな自分を受け入れてくれる高咲侑」と出会ったことで自分の大好きを貫くことができたのである。
そんな彼女は、環境や他者に合わせて自分自身を変化させることが出来るほど器用ではなく、自分自身の在り方を貫くことでしか救われる術を知らない。
だからこそ、「やりたい道に進むことで大切な人と離れて」いってしまったせつ菜を救った侑が、同じように離れていってしまいそうな歩夢を受け止めてあげられることを信じて、「貫くのみです」と背中を押すことしかできないし、そうした在り方こそが優木せつ菜なのである。
歩夢視点はどうかというと、そもそも今歩夢のやりたいことは、せつ菜のライブを見た瞬間から始まっているのである。
そして、そんな歩夢は、せつ菜のステージが「自分の気持ちをあんなにまっすぐ伝えられる」ものだった事に魅かれてスクールアイドルを始めたのである。
「自分に素直になりたい。」「だから、見ててほしい」から、「始まったのなら、貫くのみです!」となったあの瞬間、離れていく距離に悩んでいた歩夢の中に生まれたのは、侑を含めたたくさんのファンに対する思いを、たとえ環境が変わり距離が離れていても寄り添い続け伝えるのだという決意である。そして、そうした姿こそが侑やファンの人たちに愛される自分自身の在り方である事を直後に自覚するのである。
このシーンには侑はおらず、このような2人のこころの動きは実際に描写も説明もされてはいないが、彼女たちの視点に立てばこのように意味の通る会話となるのである。
*4:実は愛も妹キャラなのである。千歌やルビィと同じく、他人に頼るのが上手い
*5:スクスタでデフォルトで持っているものが、アニメではそれを手に入れる過程が描かれたり、逆にアニメでデフォルトで持っているものは実はスクスタでは1段階踏んで手に入れたものだったりする、という話