#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

ご主人様 私一番乗り! いや私! わたし! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話『開幕!ドリームランド↑↑(*'▽')』

 QU4RTZ、DiverDivaと来て、残りはA・ZU・NA。

 

 

 童貞オタクの欲望が詰まったようなエピソードでニチャニチャできる回を予想していたが、やはり顔だけユニットA・ZU・NAを見ていると人は幸せになれるようだ。

 

なお前回はちゃんと内容について触れていたもよう

 

 

 

劇団桜坂しずく~私たちは大女優~

 

 しずくが作家を努め、演じるのは歩夢とせつ菜、つまり『A・NA』。なんだか卑猥である。

 


「例え言葉は交わさなくとも、触れ合う手と手が互いの気持ちを物語る」

 

 自分の気持ちを押し殺して、我慢して。本当に自分のやりたいこと、「大好きを叫ぶこと」は、スクールアイドルとして、ステージの上で歌う事でしか表現できない。

 そんなせつ菜が、ダンスというステージの上では歩夢の華奢な手を押さえつけて、互いに大好きという気持ちを交わしあっている。

 

 (だいぶ改変されてはいるが)このシーンは『美女と野獣』でふたりが本当の愛で結ばれる劇的なシーンの抜粋だ。

 その場面の特別感、非日常感は、いわばスクールアイドルの非日常性のなかにある姿と重なる部分も多い。

 

 だからこそ、せつ菜が主導して歩夢と愛を重ねあう事は、長い長い物語の果てにたどり着いたひとつの結末だ。

 愛を確かめ合うように、歩いてきた道のりを慈しむように、物語のクライマックスという特別な瞬間に2人重ねあう時間は、美しすぎて眩暈がしてしまうような。

 いつまでもこの瞬間に浸っていたいと思わせてしまうようなそんな特別な一幕だった。

 

 舞台という特別な場所とは打って変わって、こちらはベッドの上。

 優木せつ菜という、スクールアイドルとしてしか存在できない“野獣役”ではなく、舞台を降りても同じように、上原歩夢で居続ける彼女だからこそ、彼女の演じる野獣は、本能のままに美女の身体を貪る”獣”そのものだった。

 

 上原歩夢というスクールアイドルを語るにおいて、舞台の上が特別であることや非日常的なものである事は、そうした場所が日常的な世界とかけ離れたものである事を意味しない。

 通学のたびに通るいつもの階段。遊びに行くときの通り道。毎日登校している学校。

 そんな普通の景色を、彼女が歌いだすという行為だけで特別な舞台に変えてしまうよう上原歩夢にとって、スクールアイドルは非日常的な存在ではなく、日常の延長線でしかない。

 

 侑と過ごす変わらない日常の中でスクールアイドルと出会って、スクールアイドルを始めてからの日々も、侑と過ごす日常の延長で。

 侑から勇気を貰ってきた今までと同じように、侑から勇気を貰ってステージの上に立つあり方は、大切なものが増えたとしても変わることのない、上原歩夢の日常でしかない。

 

 せつ菜にとって、舞台は特別なもので、菜々として生きる日常とはかけ離れたものかもしれない。しかし、歩夢にとっての舞台は、特別なものに”なった”だけの、日常の延長線なのである。

 

 だから、せつ菜が物語を経たうえで立つ舞台でのダンスという特別な行為は、歩夢にとってはごく日常的なことであり、物語も特別な意味合いも必要ない、ごく当たり前のことなのである。

 

 人間の三大欲求として、食欲、睡眠欲、そして性欲が挙げられるが、空腹の時に食事をし、眠い時に寝るという行為自体は、特別な物語なしに成立するものである。

 

 同じように、愛に特別な物語など必要ない。

 

 欲望が生まれたから襲い掛かる。私たちが生まれ持った本能的な欲求を満たすのに、何の壮大な物語が必要なのだろうか?

 獣にとって、身体を重ねる理由など目の前に捕食対象の美女がいるという事実だけで充分である。

 特に、それが肉付きのいい草食動物ならそれはとても魅力的な夕食である。

 獣の前に現れた、身長154cmにしてバスト83の雌一匹。力でねじ伏せられ、嫌がろうが、抵抗しようが、強引に押さえつけられ捕食されてしまう運命から逃れることなどできない。

 

 欲望のままに嬲られ、犯され、凌辱され。華奢な身体は弱弱しくそれを受け入れ、ただただ嬌声を上げる事しかできない。

 

 そんな暴力的で支配的な営みは、美女と野獣にとって当たり前に過ぎていく日常でしかない。

 屋敷から出る事もできず、歩夢の欲望のままに毎日性奴隷のように消費され……いつしかそんな快楽の中からも真実の愛は生まれるのかもしれない。*1

 

うーん、トキメキが止まらね~~~!!!!!

 

 

 

やりたいこととやるべきこと

 ラブライブ!やスクールアイドルから夢を貰ったとして、そうして生まれた夢が必ずしもスクールアイドル活動と直結するとは限らない。

 

 音楽科の成績とスクールアイドル活動は、基本的には直結しない。

 スクールアイドル活動にいくら情熱を燃やしたとしても、それによって成績に加点されることはない。

 

 音楽を始めた理由が「夢を追いかけてる人を応援するため」だったとしても、それを修める段階では、夢を応援するという行為自体は何の単位にもならない。

 

 こうした経験は、この世界ではごくありふれたものだ。例えば、大学で哲学を学びたいと思ったとしても、入学試験では哲学の知識が求められることはない。

 それが仮に学びたい内容と遠いものであったとしても、哲学を修めるために受験生のすべきことは英語や国語や社会の勉強であって、プラトンハイデガーの読解ではない。

 

 学校という場所は、あくまである程度画一的で体系的な教育を提供する場であって、別に高咲侑専用コーチがいるわけではない。

 スクールアイドル活動と侑の夢が一致するのは、あくまで机上論の話でしかない。

 たしかに、侑の夢はスクールアイドルを応援するために音楽を始めたから、スクールアイドル活動を通して彼女のステップアップに必要なものを得る事はあるだろうし、それを軸に学習を続けていれば、侑は問題なく音楽を修める事ができるはずである。

 

 しかし、現実はそんなに甘くはない。

 「夢を追いかける人を応援するためにはどんな音を出せばいいか」という事が彼女のステップアップに繋がったのは、あくまでそれが高咲侑のオリジナルの音楽を作るという課題が出されたからに過ぎない。

 スクールアイドル活動を通して得たものは、別に楽譜の読み方を覚える事に関して何の役にも立たないし、素敵なライブを見たからといってその瞬間にピアノが弾けるようになるわけではない。

 スクールアイドル活動を通して心境が変わって、見える景色が変わったとしても、自分自身にそれができるだけの実力が無ければ、夢が現実になることなんてありえない。

 

 サンシャイン!1期11話『友情ヨーソロー』や2期6話『Aqours Wave』で、心境や見える世界が変化した千歌や梨子が自分の挑戦に成功する事ができたのも、そもそも彼女たちが元々実力を持っている事が大前提である。

 侑がお台場で遊んでいたような時間に千歌や梨子はずっとピアノやロンバクの練習をしており、あとはこころが実力に追いつくだけだったから成功したのである。

 

 逢田梨香子伊波杏樹矢野妃菜喜、伊達さゆりといったステージの上で何かしらにチャレンジした人間は、私たちの前でそうした長い長い練習の過程を見せる事はない。

 私たちがその姿から受け取ることができるのは、あくまで彼女たちのこころの動きでしかなく、それに伴うための実力を得るための過程は、仄めかされるだけですべてを提示されることはないが、そうした気の遠くなるような長い修練の時間を無しに彼女たちの挑戦は成功する事はない。

 

 もしかしたら、侑だって練習を続けているかもしれない。見えないところではずっとずっと勉強しているのかもしれない。

 しかし、努力と結果や、努力と評価は比例しない。侑がどれだけ努力していたとしても、ロクに授業も受けず適当に試験を受けただけのミアなんかより真面目に授業に出ていたとしても、それでも成績不振になってしまうなら、それは結局彼女の努力が足りていない事に変わりはないのである。

 

 ミアが10の努力で達成できた目標に対して、侑が10000の努力が必要だったとして、仮に侑がミアの100倍努力していたとしても、それは「高咲侑は目標を達成するために必要な努力が足りていない」という事実に変わりはないのである。

 

 

 スクールアイドル活動を通して侑のこころがどれだけ成長したとしても、嵐珠の指摘する通り、実力の伴わない今の侑は何も生み出すことはできない。

 

 だったら、もっと上手く吸収するとか、努力の時間を増やすとか、ちゃんと向き合わなきゃいけないはずであり、そういう点で高咲侑は今中途半端なのだと言わざるを得ない。

 

 

 

 虹ヶ咲の、同好会のよくないところは、基本的に超人しかいないために、そうした点に意識が向きづらいところだ。

 愛、果林、歩夢、せつ菜のように、こころさえ追いついてしまえば、生まれ持った素質や、質のいい努力を続けることができる才能にものを言わせて物語を進行できてしまうキャラクターたちが中心にいるせいで、「努力が足りていない」「実力不足」という観点がどうしても見落とされがちである。*2

 

 だからこそ、嵐珠からは甘やかしだと評されるわけだが、そうした嵐珠は、自分自身は努力することで優秀な結果を出しているのに、周囲からは「嵐珠だから」と評されてしまっている事で傷ついてきた人間であるため、ある意味ではそうした同好会の「努力」という観点が透明化されがちな所は相容れないのだろうとも思ったりした。

 

 

その他雑記

 

 かわいい。

 

 

 

 表情がコロコロ変わってかわいい。

 

 

 

 なんでこんなバツイチの愛人みたいな服装してるの?

 

 

 おれ、今献身的で全身ムチムチな幼馴染(巨乳)と、眼鏡で真面目でオタクな生徒会長(巨乳)に尾行されながら、献身的で全身ムチムチな後輩(巨尻)を侍らせてるんだ……うへへ……

 

 

 

 

 生理痛を起こしたシーンのように見える事から、生物的にこの子達も”雌”なんだなと感じてドキドキする人間もいるらしい。虹ヶ咲は多様性のコンテンツである

 

 

 

 

 三船姉妹の脚!!!!!……はお預け。

 薫子の髪めっちゃ赤くて笑う。(ゾロアークかな?)

 

 

 

 

!!!!!!!

 

 旗でびっくりして、歴代シリーズ関連の展示があるかなって画面舐めまわしてたら、ヤバい恰好をしている嵐珠が映り込んでいて大爆笑したのを覚えている。私たちの視線は既にクリエイターの掌の上である。

 さっきまで百合妄想してたカップリングの間に挟まる女と、ステージの下で「え、俺は?」って顔してる私。

 しずくそこ変われ……いや、3人に挟まりたいよう……。

 大きな胸と大きなお尻に圧迫されてトキメキとダイスキに溺れたい……。

 というか、この子たち全員私のいう事聞くんだよね……?歩夢は幼馴染だし、しずくは後輩だし、せつ菜ちゃんは私がいないとスクールアイドルできないし……。

 そっかぁ……そんな煽情的な物語を見せてくれるって事は、どんな命令してもいいんだよね……?じゃあ、3人一緒に私に尻尾を振ってもらおうかな……うへへ……。

 

 

 

 

 夜の観覧車は、人も少なく、二人っきりの空間になるのには最適な場所である。

 立体交差点の橋の下や、夜のビックサイト裏などと並び、野外で歩夢と身体を重ねるのにちょうどいい場所だと以前から思ってはいたが、景色のロマンチックさ、狭くて揺れる車内のスリル感、絶対に外から見えない構造でありながら、見られているかもしれないという背徳感も相まって、やはり理想的な環境だった。

 

 将来への不安を忘れる束の間だけ、寄り添ってくれるその温かさに甘えながら。

 凄まじい音を立てて吹き付ける風なんかじゃなくて、自分たちの鼓動が観覧車をギシギシと揺らしているんだと、そう言い聞かせながら、漏れそうになる嬌声に唇で蓋をして、名残惜しさが残らぬように、深く、深く刻み付ける。

 20分、いや、15分もなかったかもしれない。観覧車の旅もすぐに終わりがやってくる。

 だからこそ、一瞬しか見えないこの景色、ここでしか味わう事ができない感覚も、きっと大切で、特別なものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ふともも。

 

 

 

 

 次回『大好きの選択を』

 栞子がせつ菜=菜々に気づくきっかけが「髪飾り」だったが、これによってシャッフェスの『決意の光』もまた違う意味合いが生まれそうである。

 いろいろ書ける事は、それもすべて来週にしよう。

*1:美女と野獣劇中で、野獣の家に送られることとなった美女が、これから自分に待ち受ける仕打ちとして想像していた暮らしはおそらくこんな感じだったんだろうなと思うと、あながち物語として間違っていない気もする。

*2:むしろ、そうした観点を内面化しているのは中須かすみ/相良茉優ぐらいであり、その他はそもそも実力が求められる舞台に立たない人間と、実力を元から備えている超人しかいない