#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

間違いだって構わない 後悔だけは残さない 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期7話『夢の記憶』

 だいぶ賛否が分かれるというか、人によっては読みたくない内容になるかもしれません。

 

 

前回

 

 

「できること」と「向いていること」

適性

 

就学や就職など人の進路を決めるときに考慮されるべきその個人の適応可能性。

将来の訓練によってその職業あるいは教育にとって必要な能力を習得することができるか否かがその目安とされ,体格,運動機能,感官機能,一般知能,特殊能力,性格などによって総合的に判定される。

必ずしも遺伝的,先天的な資質,才能には限定されない。

適性とは - コトバンク

 

 スクスタとアニメでの「適性」という言葉によって描かれているものは大きく異なる。アニメの方では、できる事とできない事を分ける力として適性という概念が提示された。

 実力があるからできる、実力がないからできない。

 

身の丈に合わない事に入れ込むより、向いていることに全力を尽くす。

そうすればみなさんの役に立てるし、喜んでもらえます。

 

 菜々が生徒会長とスクールアイドルの両立ができたことに対し、それは菜々だからできたことであると返すことは、菜々でなければできなかったことの裏返しである。

 また、適性を重視する思想になったのも、薫子が目標を達成できなかった事に起因するものであり、そこから身の丈に合ったこと、つまりはできる事を重視する思想となったのが、アニメの栞子である。

 

 

 

 では、スクスタではどうだろうか?

 スクスタの方での彼女が適性を重視する思想になった経緯を見てみると、似たような経験から違う要素を拾っていることが分かる。

 

 

 まず、栞子が「適性に合わない事はすべきではない」との結論に至った理由が微妙に異なっていることが挙げられる。

 アニメの方では、「できない事をに挑戦して失敗すれば傷つくから」であったが、スクスタの方では「家を継ぐ適性があるはずなのに、それとは関係ないところで現を抜かしているから」となっている。

 さらに踏み込んでいけば、「適性があるのにも関わらずそれを活かせる場所にいない事で傷つく」といった主張もなされてはいるが、ここで重要なのは、スクスタの方の栞子の描写には、根源的な部分では「できる・できない」の話はしていない事である。

 

 

 では、スクスタで栞子の語る「適性」とは、いったいどのようなものなのだろうか?

 

資質

生まれつきの性質や才能。資性。天性。姿質。

資質とは - コトバンク

 

 スクスタで栞子を通して描かれるのは、資質*1、つまり「向いている」「向いていない」という点である。

 

 メタ的に言えば、そもそもスクスタはRPGであり、プレイヤーは向いている事と向いていない事を意識しながらプレイしているはずであり、私たちは栞子に指摘される前から適性によってキャラに役割を割り振りながら物語をクリアしてきた。

 

 例えば最初期のことりや梨子はメイン作戦で使うよりもバックダンサーでの運用の方が向いているので、「アピール+中 仲間」を厳選しサブで使い続けているプレイヤーも多いだろう。

 しかし、ではそれらのカードはメイン作戦に編成できないかというとそうではない。上級程度なら目標スコア以上でクリアする分にはどんなカードを使っても、問題なくクリアはできるだろう。当然、初期ことりや梨子をメイン作戦に置いても大抵のステージで困ることはない。

 それでもなお私たちがそれらのカードをメイン作戦向けの「アピール中 同作戦」ではなく、サブ作戦向けの「仲間」を厳選しているのは、アニメ栞子のようなできるできないという判断軸ではなく、メイン作戦として向いているか向いていないかという軸で判断しているからである。

 

 

 

 こうした栞子の考え方の微妙な違いは、「適性」という言葉を物事の可否関して、結果を軸に「できる」「できない」で論じているか、過程や根拠づけに着目し、目標を達成するために必要な要素と資質を参照して「向いている」「向いていない」で論じるかという違いになるが、それによって同じ状況でも違う決断が起こることもありうるだろう。

 6話のせつ菜のダブルフェイスの話でさえもそれは同じで、「向いている」「向いていない」の論点で言うなら、せつ菜に生徒会長の適性があるとは言えないだろう。

 

人間、特に恣意的に形作られたキャラクターには得意なこと、不得意なことといった役割がある。

優木せつ菜は、己の在り方をひたすら叫ぶアーティストタイプの在り方が得意で、反面個々に寄り添うような在り方はそれほど得意ではなくて。

その気持ち 託しましょう!ふわりと舞って 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話『大好きの選択を』 - #てつがくのドンカラス

 

 本来それほど得意でない事が結果としてできるようになったからといって、それが「向いている」と言うことはできないだろう。周りを見ながら組織を運営していく事に関しては、今のせつ菜は「できる」だけであって「得意」ではない。従って「向いている」という意味での適性があるとは言えないのである。*2

 

 スクスタの栞子は、「向いている」「向いていない」という意味での適性を見抜く力を活かし、やりたいことが見つからない人間に選択肢を作ったり、やりたいことを実現するために適性を活かしていく在り方を模索したりすることで、誰かの背中を押し続けているが、アニメの方では「できる」「できない」に軸が置かれているため、単純に好きという気持ちを大切にしていくような在り方で誰かの背中を押そうとしていくのだろうと予想できる。

 



なぜ「できる」「できない」なのか

 さて、このように「適性」という言葉の切り抜き方が大きく変更されている栞子だが、こうした描写で描かれる栞子の物語はお世辞にも魅力的なものとは言い難い。

 

 彼女の魅力であった「適性を見抜く力」は、ここではやりたいことをやらない言い訳のように扱われ、少なくとも「適性を見抜く力=魅力」としては描かれていない。

 果たしてこのように適性を見抜く力を魅力として描写されない三船栞子は、キャラクターとして成立するにしても果たして魅力的なものだという事はできるだろうか?

 三船栞子と私たちの紡ぐ「あなたと叶える物語」において、彼女の最大の魅力である「適性」を描かずしてその物語は成立するのだろうか?

 

 しかし、仮に栞子の魅力である「適性」を見極める事で誰かの背中を押す描写や、「向いている」「向いていない」という観点での適性の描写を行った場合、今度はアニメ『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』自体の主張が破綻してしまうのである。

 

 まず、そもそもこの作品、特に2期の大前提となっているのは、「夢が叶うこと」である。

 1期のマクガフィンであるスクールアイドルフェスティバルは「みんなの夢が叶う場所」と題され、そこで披露された『夢がここからはじまるよ』では、「あなた」である侑とともに「あなたと叶える物語」を経た人たちから、今度は自分たちが侑の背中を押すのだというメッセージが送られた。

 

踏み出そうよ New Stage
きっと大丈夫だよ 誰より知ってる
願いは叶うよ!
新しい明日へと
さぁ 夢がここから始まるよ

 

 願いを叶えた人たちが、今度はこれから夢を追いかけ始める人間に対して、『願いは叶うよ!』と背中を押しているわけだが、こうしたメッセージが成立するためには、「夢が叶った」という事実だけではなく、「スクールアイドルフェスティバル=みんなの夢が叶う場所」でなければならない、つまりスクールアイドルフェスティバルにおいて夢が叶わない人間は存在してはならないという前提が存在するのである。

 

 『願いは叶うよ!』という彼女たちのメッセージが説得力を持つためには、願いが叶っていなければならない、叶わなかった願いは存在してはいけない。つまり、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』という作品がスクールアイドルフェスティバルをマクガフィンとする以上、叶わない夢を描いてはならないのである。

 

 このように考えると、前回の記事で取り上げた優木せつ菜というキャラクターについて、彼女の野望がアニメ中で言及されていない事にも納得がいく。

 「誰もが大好きを自由に叫べる世界」という彼女の野望は、言ってしまえば理想論であり、どれだけ彼女が叫び続けたとしても、それがこの世界で実現される可能性は限りなくゼロに等しい。

 そもそも、スクールアイドルフェスティバルという誰もが自分を表現できる場が祭典という非日常的な場として描かれていること自体が、私たちが日々暮らしている世界が「誰もが大好きを自由に叫べる世界」とはかけ離れていることを最も明らかにしていると言っていいだろう。

 このように、せつ菜の野望は少なくともアニメ1クールの、しかも1話だけのお当番会で叶うような小さな願いではなく、きっと『優木せつ菜』がこの世界から姿を消し去るまで歌い続けたとしても、少し近づくことはできても実現する事のない、「叶わない夢」であるという事ができる。

 そして、アニメではそうした彼女の野望は一切描かれることはなく、あくまでも菜々/せつ菜自信が大好きを自由に叫ぶ事ができるかどうかに絞って描写された。

 いわば、叶える事ができる部分だけを切り取って描いた上で、『願いは叶うよ!』と主張しているのである。

 

 

 

 このように、「叶わなかった夢」を描くことができないという前提を元に考えると、今回の描写にも納得がいく。

 

 ここまでの6話の中で、同好会のメンバーが獲得したものは、すべて侑に持っていないものの裏返しだった。

 (その後獲得したが)2~3話では、侑には他者からの視点で侑がどう見えているかという考え方が足りておらず、4話では侑以外の人物である美里を描くことにより、侑のあなたとしての特別性、「あなた=侑」であるという図式が否定された。5話や6話では、せつ菜が大好きを選ばなくても両立できるだけのキャパシティがあることが描かれ、逆に侑にはそれがないことが浮き彫りとなった。

 

 さて、こうした流れで、7話で栞子の適性の話を描く際、「向いている」「向いていない」という視点で描いた場合、どんなことが起きてしまうだろうか?

 「三船栞子は誰かをサポートする適性があるが、それと比べて高咲侑は誰かを支える事は向いていない」

 「ミア・テイラーは音楽の才能があるが、高咲侑に音楽の才能はない」

 7話で描かれた「できる」「できない」の話ならばいくらでも覆すことはできるが、このように「向いている」「向いていない」の話を描いてしまうと、「侑は夢を叶える事ができない」事が明らかになってしまい、また基本的にそれは覆すことができない。

 

 「向いている」「向いていない」は侑の性質に対して下される判断であり、それを覆すためには、侑自身の性質を変えるしかなく、性質と在り方がイコールで結ばれるような創作においては、結局キャラクターにおいて性質を変えなければならないという事は、そのキャラクターでは目標を達成する事ができない事を指すのと同義である。

 

 このように現状それができていない侑の目の前で、「向いている」「むいていない」の話を描くと、それは侑の夢が叶わない事を示唆してしまう事となり、この作品においてそれを描くわけにはいかないのである。

 

「あなたと叶える物語」から「私を叶える物語」への変遷

 このように、夢を持って走り出した高咲侑の物語と、彼女に夢を与えた人間たちの在り方が破綻しないように、せつ菜や栞子は、彼女たちの物語を描くにおいて一番の魅力になりうる部分を封印されている事が分かった。

 では、9人分お当番会を用意するような、個々に寄り添う事をテーマにしてきた作品において、なぜこのような描写で栞子が描かれているのかについて考えていく。

 

 まず、1期と2期の大きな差として、やはり1期の終盤まで侑に夢がなかったことが挙げられる。

 夢を持っているのは侑の周りの人間で、彼女たちと関わり、彼女たちの夢を叶えていく物語で重要になってくるのは、侑が彼女たちに対して何ができるかであり、いわば「あなたと叶える物語」であった。

 それに対して、2期では常に侑の夢に焦点が当てられていた。彼女の隣で夢を追いかける同好会メンバーは、1期のように侑とともに夢を叶えるというよりは、侑に何かを気づかせたり、また侑と対比構造で描かれたりといった立ち位置になっている。

 このように考えると、2期で鍵になるのは、侑が彼女たちに何ができるのかではなく、彼女たちが侑に何をもたらすのかであり、言ってしまえば侑の「私を叶える物語」である。

 

 だからこそ、侑を媒介として9人の夢を描いた1期では、9人それぞれの魅力に(侑の物語を破綻させない程度に)焦点を当て、彼女たちが魅力的に見えるような描写で描かれていた。

 それに対して、現在進行している2期は、侑を媒介としている9人の夢というよりも、12人を媒介とした侑の物語が描かれており、12人の描写は12人が魅力的に見える視点ではなく、侑の物語にとって何らかの必要な要素をもたらせるかどうかという視点で切り抜かれているものだと言っていい。

 例えるなら、同好会を魚、侑を白米だとして、白米と組み合わせることでより魚を美味しく食べられる握り寿司が1期で、白米を美味しく食べるためにたくさんの魚から1部分だけを切り抜いて盛り付けた海鮮丼が2期である。

 

 言ってしまえば、せつ菜を魅力的に描き、優木せつ菜というキャラクターの生きざまがわたしたちのこころに傷跡を残すぐらいに魅力的なキャラクターとして私たちに提示したいのなら、生徒会長を巡って栞子と対立し、感情をぶつけ合い、弱いところも未熟なものもすべて晒け出してしまった方が、今よりももっと「優木せつ菜」というスクールアイドルの生き様ががわたしたちのこころに深く突き刺さっていただろう。

 三船栞子というスクールアイドルを魅力的に描きたいなら、適性によって今までその人になかった視点から道を示し、背中を押す*3姿や、せつ菜や同好会とぶつかり合い、傷つけたり躓いたりしながらそうした在り方を獲得する姿を描いていたほうが、今よりも「栞子が好き」だと思う人間はもっともっとたくさん産まれていただろう。

 しかし、今展開されている物語は、せつ菜や栞子を描く物語ではなく、高咲侑が夢に向かって進んでいく物語である。せつ菜の野望も、栞子が背中を押す姿も、少なくとも現状侑の物語に対して何かを与える事はない。だから、描かれないのである。

 

 このように、今回の三船栞子のお当番回が、必ずしも三船栞子というキャラクターの魅力を存分に発揮できるような物語*4ではなかったことから、この物語は高咲侑という人間を描くための物語なのだという事が改めて読み取ることができる。

 

 

その他雑記

f:id:Darkphoenix505pianoLes:20220514235600p:imagef:id:Darkphoenix505pianoLes:20220514235605p:image

毛根からじゃなくて毛先から伸びてる。

 

 三船姉妹の脚!!!!

 

 

 ヴァイスシュヴァルツスタンドアップアイコンみたいな法被。

 

 

 

 どんだけ食べたの!?!?

 薫子が紫苑女学院出身なの、分かるなぁ……(栞子の部屋に蝉を放ったり、夜中に栞子をたたき起こしてゲームを始めたり、自転車の後ろに乗せて坂道を爆走したり、日本一周の旅に巻き込もうとしたり……)

*1:「才能」のように、先天的なものに限らず、後天的な要素まで含むため誤解のないよう

*2:そして、スクスタでそれを指摘している栞子がいちばん「向いている」キャラクターである。

*3:3話と被る内容ではあるが

*4:今回の物語と似た状況に陥ったキャラクターとして、絢瀬絵里や葉月恋や、鞠莉の母親が挙げられるが、他シリーズではそれぞれのキャラクターを魅力を、映像に力によって見せつけるような描写が少なからず存在したが、『夢の記憶』に関しては、物語の中で描かれた三船栞子という人物像を描写に落とし込んだ、迫真の演技や「ラブライブなんて出なくていい!」のようなパワーのある台詞回しによって構成される、所謂「名シーン」と呼ばれるものは1期や他シリーズと比べて明らかに少ないという点もあるが、物語そのものの魅力があればそれを映像として出力する必要は必須ではないため、敢えて要素としては挙げない事とした。