#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

出会いって謎だらけ いつから決まってたんだ 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期3話『sing! song! smile!』

 かなり異色な回だった。

 説明過多と評されかねない程に、1つのトピックに対して時間をかけて描写する傾向にあるこの作品は、裏を返せば1話1話の内容自体はさほど濃密なものではない。

 基本的には終始出来事の描写だけで進行し、そうした出来事によって描かれるテーマを毎回クライマックスに置かれている都合上、「何が起きたか」ミクロな視点ではなく「何が描かれたか」というマクロな視点で見れば、アニメ『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』はかなり単純で平淡な物語となっていた。

 

 しかし、2期3話『sing! song! smile!』に限って言えば、他ラブライブ!シリーズと同じように、複数の要素が複雑に混ざり合い、なおかつ影響を及ぼしあいながら1つのクライマックスを構成するという、マクロな視点で見たときに胃もたれを起こしそうになるぐらい相当濃密な回だったと思う。

 

前回→ でもどうしても繋がりたいから! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期2話『重なる色』 - #てつがくのドンカラス

 

 

 

 

いつか君を見つけた時に君に僕も見つけてもらったんだな

 今回の話の核になるのは、「他者から見た自分」だった。

 QU4RTZの4人が今回のエピソードで「他者の視点から見た自分自身の姿の中には、自分自身でも気づいていなかった姿も存在する」という事に気づき、そうした他者の中にいる自分の姿を軸にライブを構成していく事となる。

 

 彼女たちがそのことに気づくことができた切っ掛けとして、侑が自分の事を「みんなと違って個性がない」と評していた事があったが、このエピソード、既視感がないだろうか?

 

 そう、ラブライブ!サンシャイン!!2期6話『Aqours Wave』である。

 自分の事を普通で何も持っていないと思っている主人公が、1人では壊すことのできない壁にぶつかった時、今まで主人公が紡いできた物語の中で、主人公と共に歩くことを決めた仲間たちが、自分にとってその主人公がどのような存在であるかを伝えることで、「自分とはいかなる存在であるか」という意識が変化していく。

 その変化は主人公の決断や能力に大きな変化を与え、そして立ちふさがる壁を壊せるだけの大きな力になっていく。

 

 

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 このテーマは学問的にも物語的にもかなり普遍的なテーマである。

 

 第1話の記事で、レンズ自身を撮影できるレンズは存在しないと挙げたが、人間も同じように、自分自身を外から観測する事はできないのである。*1

 

 また、自分自身が何者であるかという命題に対して考察するとき、仮に他者を媒介することなく自分自身を観測できたとしても、そうした観測によって得られるものは、人間という存在に対して普遍的なものであるのか、それとも自分に特有のものであるのか、それとも自分の持つ属性に依るものなのかで分類する事ができない。

 

 他者というものを全く認識していない人間は、「生命活動をしている」という事が、それが自分自身に特有なものなのか、それとも当然のものなのかという区別ができない。

 

 また、「自分自身」とは、自分自身の内で完結している概念であることはあり得ない。

 

 例えば、徳川家康が実際に生きていたのは1616年であるが、彼が生命活動を終えたからと言って、徳川家康の伝記はそこで終わるわけではない。

 家康の開いた江戸幕府は1867に15代将軍慶喜によって大政奉還され終わりを迎えるが、そうした幕府が250年以上続く太平の世をもたらした事を欠かすことはできない。

 

 「徳川家康」という人間が何者であるかという事を考察する際、250年続いた江戸幕府やその時代を生きた人々の中にある、今生きているこの時代を作ったのは徳川家康であるという事実を抜きに考える事はできず、むしろ、後世を生きる他者の存在によって、彼は歴史に名を遺す偉人として存在していたのだといえる。

 

死者とのこのような共同存在においては、故人その人は事実的にはもはや「そこに現に」存在していない。

しかし共同存在ということはあくまでも同一の世界のうちでの共同相互存在ということである。

故人はわたしたちの「世界」を立ち去ったのであり、そこをあとに遺していったのである。この世界のほうからみれば、遺された人々はまだ個人とともにいると言うことができるのでえる。

 

ハイデガー存在と時間』 708節 死者との共同存在の意味

光文社 2019 中山元

 

 このように、「自分自身が何者か」という問いに対する解答は、自分自身の内だけで完結する事はない。

 

 

 また、そうした「他者からの視点の中にある自分」を軸に構成されるQU4RTZのライブを栞子が見ていたという事も、要素として欠かすことが出来ない。

 

 栞子の在り方は、自分にしかできないやり方、つまり適性を見抜きそれを目標を達成するための手段として活かす方法を見つけることで、誰かの背中を押すことである。

 そうした適性というものも、栞子の目線で見えるもの、つまりは他者の視点で見る*2自分自身では気づいていない自分の姿とはどのような物なのかというテーマに沿ったものであり、それが」軸となっている栞子がQU4RTZに魅かれるのも納得である。

 

「あなた」のSymphony

 さて、QU4RTZがそうした気付きを得るきっかけとなった侑のエピソードだが、「同好会のメンバーたちから見た侑」を知ることで、「自分らしさ」とは何なのか、「自分の表現したいもの」とは何なのかに対しての回答として、彼女が作り出した曲が『NEO SKY, NEO MAP!』だった。

 

 かつて、アニメ1期を軸に行われた『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 3rd Live! School Idol Festival ~夢の始まり~』でこの曲が披露された時、私は舞台に立つ高咲侑/矢野妃菜喜がどうしようもなく私自身にしか見えなかったのを記憶している。

 

 結局、夢の色も辿る地図も違ったとしても、高咲侑/矢野妃菜喜は私たちと同じ熱い想いのままに走る「あなた」である事に変わりはないのだ。

 2回披露されたた『NEO SKY, NEO MAP!』。1回目はアニメの文脈をなぞるものとして披露されたが、2回目は虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会というコンテンツの総体、「あなたと叶える物語」というコンテンツがそうあり続けるためのものだった。

 ただのライブのエンディングではなく、例えどこでどんな夢を追いかけようとも、彼女たちは手の届かない伝説でもずっと先を走り続ける挑戦者でもなく、隣を走る仲間でライバルであり続ける事を約束した瞬間だった。

世界が色づいて光りだす瞬間を見た。【ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 3rd Live! School Idol Festival ~夢の始まり~】 - #てつがくのドンカラス

 

 

 1回目は、9人の仲間と一緒に紡いだ物語の中で。そして2回目は、同じ「あなた」として紡いだ物語の中で。

 同好会のみんなと「あなた」である侑が、そして、同じ「あなた」としての侑と私たちそれぞれが、共に「あなたと叶える物語」を紡いでいく仲間でライバルであると誓い合ったあの曲。

 

 それは、「私を叶える物語」の中で澁谷かのん/伊達さゆり、葉月恋/青山なぎさと、それを応援する私たちが、同じようにラブライブ!シリーズを応援する中で、「私を叶える」ために走り続ける仲間*3であることを示した『私のSymphony』が、アニメで「自分を信じる事を象徴する曲」であると同時に「誰かに信じてもらっている事を象徴する曲」に生まれ変わった事と、切り離して語ることはできないだろう。

 

 ラブライブ!を応援するファンという括りで見た「私たち」の中から生まれた存在であることがキャラクターの核となりうる部分である点において、「あなた」及び高咲侑/矢野妃菜喜と澁谷かのん/伊達さゆり、葉月恋/青山なぎさは共通点を持つと言える。

 

 そして、その共通点となる部分が色濃く反映されている曲がそれぞれ『私のSymphony』と『NEO SKY, NEO MAP!』である。

 

 「侑らしさ」を表現する曲として提示された『NEO SKY, NEO MAP!』は「あなたと叶える物語」を紡ぐ主人公としての私たちの在り方を示す曲であると同時に、虹ヶ咲にとって「あなた」である高咲侑/矢野妃菜喜と私たちにとって夢を追うとはどういうことか、私たちにとってのスクールアイドル活動でありLove Live Daysとはいったい何なのか、いわば高咲侑/矢野妃菜喜と私たちにとっての「私を叶える物語」の核になるような、そんな曲である。

 

 

 結果的に、侑は音楽を始めたことで視聴者のみなさんと同一ではなくなりましたが、TVアニメを見ているみなさんもまた、自分ならではの一歩を踏み出して行ける。

 そうやって侑と一緒に成長できたら素敵だなと思います。

 TVアニメオフィシャルBOOK 監督インタビューより抜粋

 

 「あなたと叶える物語」であり、「私を叶える物語」と、それを象徴する曲の軸がいったいどんなものであるかは、今回のエピソードで同好会のメンバーが語っていた通りだろう。

 

ゆっくりと走るこの道 何かが生まれかけてるんだ
それを伝えたいよ 君へと伝えたいんだ

 

 生まれたトキメキや、スクールアイドルが大好きだという気持ち。そんな想いが生まれたことで自分の世界が変わっていたことを、相手に伝えるという事。

 

私は、スクールアイドルが!

ニジガクのスクールアイドルのみんなが大好きですー!!

 

歩夢ちゃんが夢に向かってひたむきに進んでいくのをずっと支えたい!!

かすみちゃんのかわいさできゅんきゅんしたい!!

しずくちゃんの世界で溺れていたい!!

果林さんの熱いまなざしに翻弄されていたい!!

愛ちゃんが全力で楽しむ姿を見て、私も一緒に楽しみたい!!

彼方さんのわがままをなんでも叶えてあげたい!!

せつ菜ちゃんが野望を叶えるお手伝いがしたい!!

エマさんの包み込むような歌声に浸っていたい!!

璃奈ちゃんが世界中のみんなと繋がれるところを見ていたい!!

栞子ちゃんが世界を変えていく、一番最初の目撃者になりたい!!

ミアちゃんの透き通るような歌声を聴いていたい!!

ランジュさんの全力を受け止めて、ぞれ以上の気持ちで返したい!!

 

あははっ!これが私のスクールアイドル活動!

スクールアイドルのみんなに大好きだって伝えること!!

 

 いつもスクールアイドルにトキメいてしまうだけの感性と、それを伝える事ができるだけのまっすぐさ、伝えたいという衝動。

 そうした、高咲侑/矢野妃菜喜びわたしたちの中にある、自分自身がファンであるという自覚、ファンとしての在り方がそのまま、侑の音楽という夢に結び付いた結果、彼女は壊すべき壁、進んでいく道の節目で、高咲侑/矢野妃菜喜及び私たちらしさと「あなた」としてのスクールアイドル活動の在り方が一致し、『NEO SKY, NEO MAP!』を作り上げる事ができたのである。

 

 ここで注目すべき点は、虹ヶ咲というコンテンツ全体の核であるともいえる、「夢」の神格化の否定である。

 

 「ラブライブで優勝する」ことや、「歌姫になること」「自分を変えたい」のように、夢という言葉には辞書的な意味以上に大きすぎる意味を付与されがちな傾向がある。

 

 多様性が当たり前となり、個性という言葉を主張すること自体が没個性だと感じてしまうほど、現代社会では「自分らしく生きていくこと」は当たり前のように要求されるものとなり、そうした自分らしい生き方の軸となる「夢」という言葉はどんどん仰々しいものへと変化しつつある。

 

 そんな中で、ラブライブ!を応援する人間ならだれにでも当てはまる応援という行為を「自分らしさ」及び、応援するという行為そのものを「私のやりたいこと」「私の輝き」「私のスクールアイドル活動」であると提唱する存在を、私たちの分身として産み出したのがこのコンテンツだった。

 

 だからこそ、私たちは「あなた」として彼女たちを応援する事そのものを、夢を追いかける仲間たちと完全に対等な「スクールアイドル活動」として経験し、そして、そうした経験をするという行為そのものが、世間一般に言うような大層な意味は持っていないかったとしても、当人にとっては確かに誇れるだけの「私らしさ」であり、「私の夢」になっていたはずである。

 

 しかし、そんな「あなた」の分身であったはずの侑は、アニメ1期で自らの応援という行為を差し置いて「夢ができた」と言い、音楽を始めるという世間一般に言われるような、「何者かになる」という典型的な夢に向かって走り始めてしまったのである。

 

 

特に、私たちの分身である高咲侑というキャラクターが自分自身の夢の形として音楽を始め音楽家編入しようとした事は、ある意味でかなり残酷な描写であると言っていい。

 

夢を追いかけてる人を応援する事に最大の焦点を置いた虹ヶ咲。

そんな作品の中での、今まで支えてもらっていた側からの「あなたには私がいる」という描写は、作品を象徴するような出来事であると同時に、そこで描かれた夢が「何かになろうとすること」である事によって、「私たちの分身が今までとは違う何者かになろうとして歩みだした」という、まだ夢がない人や、頑張れる場がない人間にとっては、ある意味で身を斬られるような、そんな出来事となってしまった。

「あの子たち」ではなく、侑は「わたし」である以上、「わたしもはやく何かにならなきゃ」と焦った人は本当に多いと思う。

Love Live daysにもいろいろあるという話 - #てつがくのドンカラス

 

 それは、ある意味では侑から私たちへの裏切りのように見えたかもしれない。

 

 「あなた」という在り方に救われていた人間を傷つけ絶望させかねないような、そんな残酷な描写であると言えるかもしれない。

 

 しかし、2期でのこのエピソードによって、そうした人たちもまた救われたのではないだろうか。

 そう、結局侑の音楽という「夢を追いかける」姿も、根底にあるものは「あなた」らしく応援する事であり、トキメきながら走り続けるという、昔から変わることのないラブライブ!のファンの姿であり、そんな私たちの素顔こそが、「夢」のエンジンとなる「私らしさ」でしかないのだ。

 

 

 音楽ができるかどうかは侑を構成するうえで大切なものであるかもしれないけれど、それは結局彼女の在り方の表層でしかない。

 それは、トキメくこと、応援するという私たちと同じ夢の形がすこし形が変わっただけで、最終的に「何者かにならなければならない」という主張で夢の形を限定するものではないのである。

 

さあ日々冒険の それぞれの地図
同じものはないね きっとないね
夢の色も違うけど 想いは一緒だよ
熱く、一緒だよ!

 

 

QU4RTZのパフォーマンスが嵐珠の在り方を傷つけているということ

 さて、他者からの視点というテーマで描かれたQU4RTZのパフォーマンスだが、それは嵐珠の眼にはどのように映ったのだろうか?

 

仮に、QU4RTZの在り方を正しいものとして嵐珠に提示し、彼女をそのように導こうとしているならば、それは1期序盤にせつ菜が同好会に対して行ったことと同じように、エマや彼方らによる一方的な押し付けでしかない。

また、そうした在り方を単に彼女たちの在り方として提示するだけだとしても、嵐珠にとってそれが必要なものであるとは考え難い。

でもどうしても繋がりたいから! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期2話『重なる色』 - #てつがくのドンカラス

 

 

 このエピソードの前は、QU4RTZが嵐珠に何を与えるのかピンと来なかったが、実際は彼女たちが嵐珠になにかを与えるどころか、もっと大変な事態が起きていた。

 

 「他者から見た自分」という視点は、嵐珠にとってはいわばトラウマ、地雷でしかないのである。

 

 

 そもそも、嵐珠にとって他者の視点とは、彼女の現在の人格を形作る基盤となったような、言ってしまえば爪痕を残してしまったようなそんなテーマである。

 



 『大丈夫 どんな時でも一人じゃない みんながいる』と、QU4RTZは歌ってはいるが、嵐珠にとっては冗談ではない。

 

 嵐珠はその他者の目線によって孤立し、他者の目線によって傷ついてきたキャラクターなのである。何も大丈夫ではない。

 

 そんな嵐珠に対して、「他者の目線によって新しい自分が見つけられる」と伝えたQU4RTZの行為は完全に善意ではあるが、それを見て会場を立ち去る嵐珠の反応を見るに、少なくとも彼女が多少なりとも傷ついてすらいないなどという事はあり得ないだろう。

 

 エゴの押し付けは危険な行為だ。1期5話『今しかできないことを』で果林に対してはプラスの方向に働きはしたが、旧同好会の対立や、スクスタでの部と同好会の対立のように、それが善意であったとしても相手はそのようには受け取らないし、深い傷を残すことになる可能性だってある。

 

 

 1話の記事と重複する内容となるが、1期では他の人の大好きを大切にするというテーマに向き合ったのはせつ菜だけで、他のメンバーは当事者ではあってもそうした思想にたどり着くことはなかった。*4

 

 そして2期では、傷つけられた側の人間だったはずの旧同好会の人間たちが、今度は知らず知らずのうちに傷つける側に回ってしまったのである。

 

 このように、自分を傷つけた言葉や、自分を傷つけた行為と同じことを、知らず知らずのうちに他人に対して同じように行っている姿からは、現実世界で私たちの身の回りで本当に起きているかのような生々しさと、自分自身の経験が嵐珠にもQU4RTZにも重なって見えるような、どうしようもないやるせなさやもどかしさを感じたりもした。

 

 

 とはいえ、ここまで「押しつけ」「傷つける」といったネガティブな言葉を使って読み解いてきたが、必ずしもそうした行為自体が悪いものであるとはいえない。

 

 果林にとってそういう行為がプラスに働いたように、エゴの押しつけが結果として相手の人となりを形作るというような事はごく当たり前のことである。

 

 むしろ、運命共同体とでも言うべき関係性のキャラクターたちは、自らの人格の中に他者のエゴが組み込まれていると言っても過言ではない。

 例えばしずくの『Solitude Rain』やせつ菜の『DIVE!』は、「本当のしずくが好き」というかすみのエゴや、「せつ菜の歌が聴きたい」という侑のエゴによって救われ、支えられていると言っていい。

 そして、先程述べた侑の在り方自体も、最初は「私の夢を一緒に見てほしい」という歩夢のエゴによって始まったものであり、もし1話で歩夢が侑に気を使って何も言い出さなければ、今の侑はいない。

 

 こうしたキャラクターたちは、実は自らのエゴでパートナーに対して否定を突きつけるという形を取ることもあり、それも同じように今の人格を形作るものとなる事も多い。

 

 「穂乃果は我儘言って欲しい」というエゴから、自分の気持ちに嘘をついた穂乃果を平手打ちした海未、「ピアノが好きと言う梨子の気持ちも大切にしてあげてほしい」というエゴから、ピアノよりAqoursを優先する決断をしていた梨子に対して「ピアノコンクール出て欲しい」と伝えた千歌。

 「他人に大切な人を誤解されたくない」というエゴから、あなた本人も諦めていたスクールアイドルフェスティバル開催の大逆転の一手を打ち出した歩夢。「正しく幸せになって欲しい」というエゴから、自分自身の大好きを押し殺していたり、出来もしない誰かの代弁行為をしようとしていたせつ菜に対してNoを突きつけた栞子。

 

 そして、彼女たちと今回のQU4RTZの大きな違いは、対立軸やNoを突きつけた後の対応にある。

 穂乃果に対しての海未、梨子に対しての千歌、侑/あなたに対しての歩夢は運命共同体で、もはや他者として切り離すことはできない関係である。

 だからこそ、ある意味では自分のエゴは相手のエゴであるとも言えるし、傷つけあうことで混ざり合うという関係性を築く事もできる。

 むしろ、そうした地獄まで道連れになるような関係性だからこそ、傷つけてでも重ね合うという選択肢を取れるのかもしれない。

 

 かすみはしずくの事を最期まで大好きでいるつもりでいるし、侑の始まりが『CHASE!』である以上、仮に優木せつ菜/楠木ともりがステージに立つ事が無くなったとしても、侑の中にあるせつ菜への気持ちは消えたりしない。

 栞子だって、侑/あなたの上位互換と呼べるぐらいには、1:1のそうした関係に特化したキャラクターである。

 

 そういう最後まで添い遂げられるような関係性であり、それを貫き通す覚悟があるからこそ、彼女たちは「自分の大好きを押しつけ」、「自分のエゴ、我儘」で他者に干渉し、他者でありながら他者ならざる関係性を築こうとする。

 

 

 しかしQU4RTZ、特にエマはどうだっただろうか?

 嵐珠に対して自らのエゴを見せつけるだけ見せつけて彼女を傷つけたわけだが、それ以上の事は何もしていないのである。

 

 他者の目線によって傷ついてきた嵐珠は、いつかそれがスタンダードとなり、「与える」だけの存在となっていたわけだが、エマはそんな嵐珠に対して、傷つけるだけ傷つけたはいいが、傷つけたなりに寄り添おうとしただろうか?

 嵐珠を傷つけた上で、嵐珠にとって必要だったものがそれによって得られたなら、そうした行為は素敵な意味を持つかもしれない。

 

 しかし……。

 

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 今唯一嵐珠を対等に扱う友人である栞子は、QU4RTZのライブを通してスクールアイドル同好会に興味を持ったようだが……?

 

その他雑記

 ミアを中心にこれから描かれるであろう、「やりたいこと」と、「求められるもの」の違いについても、知らず知らずにうちに他人を傷つけている事のように私たちにとって日常的に直面する問題である。

 特に、私たちコンテンツを追いかけるファンは、コンテンツ、及びクリエイターに対して何かを要求しがちである。

 しかし、そうした要望に応えるクリエイターは果たして「やりたいこと」をやっているクリエイターと言えるのか、そしてそうしたクリエイターがそのように創った作品は、本当に最初にファンが好きになった作品の在り方と一致するのかという問題は、一度は意識すべき問題である。

 また、顧客も自分自身が求めるものを理解しているのなら、他のクリエイターに任せること自体がおかしなことだという主張もある。

 何が必要なのかを理解しているなら、他者に求めるより自分自身で創ってしまえば、自分自身の判断基準に適わない作品になることはない。

 他人に任せるという事は、その時点で「自分自身の判断基準に合わせる」という点において、自分で創ることよりも下になることに間違いはないのである。

 

 

 

 

 歩夢の「えっ」が完全に大西亜玖璃

 

 

 

 ソロでフェスに出場している他同好会メンバーは1期ソロ衣装であるが、「あなた」のためという文脈を離れた『Awakening promise』がアニメ12話や3rdライブほどのパワーを持つとは考え難い。

 しかし、「あなた」という存在を前提とした上原歩夢の強さは、私たちの知る通りである。

 

 スクールアイドルとしての上原歩夢の実力については意見が分かれるところであり、同好会最強格と呼ぶ声もあれば、かすみと並ぶ未熟組と評する声もある、

 このような認識のズレも、フェスに『Awakening promise』で出場する(=歩夢の武器は「あなた」でしかない)描写をみると、なかなか象徴的なものなのかなと思ったりした。

*1:鏡という手段はあるが、鏡は「投影するもの」であり、結局は鏡に映る自身の姿は、鏡という他者に投影した姿でしかない

*2:栞子の場合は、他者というより客観的という方が正確かもしれない

*3: 「夢がない」と思う人もいるかもしれないが、そもそも夢なんて言葉はそんなに大層なものでもない。

 「素晴らしい夢」「美しい夢」ばかりが注目を集めているだけで、本当はたとえどんなに小さな目標であったとしても、それは立派な「夢」であるし、それは「応援する事」に軸足を置いた虹ヶ咲の中でとても大切なテーマでもある。

darkphoenix505pianoles.hatenablog.com

 

*4:少なくとも、上手くいっただけでエマが果林に対して行った事は、せつ菜がかすみに行った事と変わらない。ただの意見の押し付け、在り方の強要、エマの身勝手、エゴであり、たまたまそれが果林にとって必要なものだったに過ぎない