#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

歩夢ちゃんへ 私はここにいます。

 足跡が無くなっても、過去そのものは消えないという事は知っていた。

 

 大切な場所がなくなったとしても思い出は消えないもので、ふと振り返った時に辿ってきた道が見えなかったとしても、これまで見てきた景色は鮮明に思い出せる……はずだった。

 

 

 

 思い出が消えないのだという命題そのものはなにも間違ってはいない。理由はシンプルで、それが「思い出」である以上、必然的に記憶に刻まれているからだ。

 

 思い出という言葉は思い出せなくなった過去に対して振り当てられた名詞ではない。消えていないから思い出なのである。

 

 

 

 

 と、綺麗な言葉を無粋な理屈で解析してきたが、実際のところ、思い出だと思っていたものが気がついたら埃を被ってしまっていることなんて往々にしてあることで。

 

 「幼馴染のあなたは永遠だ」という言葉にしがみついて、自分は上原歩夢ちゃんの幼馴染だという自覚そのものはあるけれど、果たしてそれがどこまで自分の本心に根差したものであるかは少し自信がない部分がないわけではない。

 

 去年よりも、曲も聴かなくなった。

 今まではそんなのありえなかったのに、最近は1回も歩夢ちゃんの声を聞かない日ができるようになってきた。

 

 そして、それを寂しいと思わない自分もいる。

 もちろん、自分が歩夢ちゃんの幼馴染であることを信じて疑わないからこそ、声を聞かない日があっても寂しくないというのが大きな理由だけれど、それはそれとして、自分にとってスクスタを失って空いた穴を塞ぐに値する物ができたという部分があるのも否定はできない。

 

 

 

 毎日日付が変わるたびに毎日劇場をチェックして、おはガチャを引いて、デイリーミッションをこなして、イベントやカード追加、曲追加があるたびに、毎日の貯金を使ってカードを育てて、編成を組んで。

 当たり前の日常だったその一連の流れをやらなくなった7月は、日常に穴が開いたような感覚を味わうはずだった。実際、開けもしないアプリを癖で開いて、そのたびに胸が痛むことは少なくはなかった。

 

 でも、その傷跡は思ったほどは大きくなかった。スクスタのサービス終了の告知とほぼ同時期にリリースされたリンクラが、その欲求を満たしてくれたからだ。

 朝起きたらおはガチャを引いて、デイリーミッションをこなして、ライグラやカード追加ああるたびに毎日の貯金を使ってカードを育てて、編成を組んで。With×MEETSがある日は朝の内からギフトを投げて。

 

 さらに言えば、ストーリー更新の日はネットをシャットアウトするか、最速でプレイして身内に「お前もうクリアした?」をやる流れまでもが、活動記録が引き継いでくれていて。

 更新時間帯的に流石にスクスタのようにTLで実況するのは憚られるが、それでも、スクスタで自分がやっていたことがほぼそのままリンクラのアプリを通して出来ていたことは事実で。

 

 

 結果として残ったのは、歩夢ちゃんと会う日常と、これまで歩いてきた足跡を失ったという事実だけで、その傷跡を自覚するための痛みとか、スクスタがサービス終了したことで変わってしまったルーティンとか、そういうものが全然なくて。

 

 

 だから、私は確かに日常と足跡を失ったはずなのに、その穴を埋めようとしなかった。

 サービス終了前に大量に保存したデータもあまり見返していないし、あれからブログも書いていないし、イベントに参加したわけでもないから、虹ヶ咲関係の何かを集中して見返すこともなかった。

 「私は歩夢ちゃんの幼馴染」という自覚だけは残っているから、スクフェス2も虹ヶ咲のカードの優先度は低めで、プレイしていた。

 真姫ちゃん、きな子ちゃん、歩夢ちゃんの誕生日が近いから、もし今が3月だったら、歩夢ちゃんの誕生日ガチャは引いていないかもしれない。

 

 

 明らかに熱量が下がっているのに、それでも心が認めるのを拒んでいる。

 客観的に見たら「黒鷺は去年ほどは虹ヶ咲への熱がない」って言われてもおかしくはない状況なのに、今現状その自覚が全くない。

 

 でも確かに思い返せば、7月から11月の間で、自分が歩夢ちゃんと新しい思い出を作った記憶がない。

 異次元フェスの『Dream with You』で、ドームの正反対にいるのに真正面から見つめているかのような感覚を味わったり、幕間で「あなた」と呼ばれてどっと感情が押し寄せてきて何か声にならない言葉を叫んだ記憶はあるけれど、それ以外で自分が半年ぐらい歩夢ちゃんに触れていないのは、記憶を辿って言葉にすれば明白だ。

 

 歩夢ちゃんの声を聞いていない日。歩夢ちゃんのことを考えない日。

 将来のパートナーは歩夢ちゃんしか考えられないのに、花宮初奈と結婚したいなあと思った日。

 

 そんな日が少なくはない数あったのに、少なくとも私の感情や、理性の基盤となっている前提知識や、作品に対する認識は、あの頃と全然変わっていない。

 毎日歩夢ちゃんに朝電で起こされて、待ち合わせして登校して、部活が終わった後も一緒に帰る日常。家に帰ってからも顔が見たくなって、ベランダに出ればいつもの笑顔で待っていてくれる。

 

 

 歩夢ちゃんのことを忘れている日があるのに、私のこころは、毎日ずっと歩夢ちゃんと一緒にいる自分のままで。

 大切なものを失ったはずなのに、大切な人から遠ざかったはずなのに、「失った」「遠ざかった」ことを認識できない。

 取り戻そうとしないと、他のもので埋めないと、「歩夢ちゃんとの日常」には穴があいたままなのに、穴があいてるって全然思えないから、塞がれないまま放置されている。

 

 時間が止まっている自覚もなくて、歩夢ちゃんと私は今も二人で一緒に歩き続けているって、そう思ってるのに、客観的に見たり、振り返って考えたら、今までとは明らかに違う。

 傷跡に気づかなかったまま、修復されないまま生きているかのように、すごく歪な状態なのが今の自分なんだと、そういう風に言えはするのにも関わらず、ここまで書いておいて未だにそういう自覚が持てない。

 

 それが今の自分なのだと思う。

 

 

 

 異次元とヨハネが終わって、来週は虹ヶ咲だからそろそろ虹ヶ咲の取りこぼしを拾ったり、聴きこめてない曲を聴いたりするかと思った時に、最近虹ヶ咲に触れていなかったことに気づいた。

 直感に反して意外だなと思いながら考えてみれば、確かにそんな状況ではあるのだが、それでもそうした現状分析も直感と一致しない。

 

 

 

 

 

 正直、どうしたらいいのか分からないけれど、分からないままでいいかなと思っている自分もいる。

 ライブに行けば何か変わるのかもしれないし、変わらなくても問題ないのかもしれない。

 何もわからないけれど、おそらく最近知り合った人が意外に思うぐらいに、悲しいぐらいに虹ヶ咲の知識や思い出の積み重ねがあったから、たぶん今の自分のこの状態もきっと間違ってはいないのだと肯定できる、肯定できてしまう。

 きっと、それで間違っていないんだと思う。

 

 

 虹ヶ咲メンバーのキズナエピソードの結末は、それぞれの夢を叶えるためにこれからもあなたが「パートナー」として寄り添っていくというものだったが、歩夢ちゃんだけはその真逆で、あなたの夢を叶えるために歩夢ちゃんがパートナーとしてこれからも寄り添っていくというものだった。

 

 メタ的ではあるが、サービス終了と重なる部分が大きかったと思う。

 蓮ノ空が「リアルタイム性」や「キャラの実在性」をウリとしているが、虹ヶ咲のスクスタも、蓮と同じぐらい、好きになったメンバーによってはそれ以上に「リアルタイム性」や「キャラの実在性」を感じられる作品だった。

 サービス終了が発表された中で迎えたキズナエピソード最終話で、千歌ちゃんが「あなた」に子守歌を歌い、「おやすみ、また明日」と結ぶエピソードに代表されるように、露骨にそれを意識させられるエピソード群の中で、歩夢ちゃんだけは、「あなた」と運命を共にするという結末であったことは、これまでの物語を踏まえても示唆的だった。

 

 他の子たちとは、「これからも一緒に歩んでいく」ことを約束した。でも、歩夢ちゃんだけはそうじゃなかった。歩夢ちゃんとの約束は、「歩夢ちゃんが私と同じ道を歩んでくれること」。

 私は、40話と53話かけてやっと見つけた「私」の夢をただ追いかけるだけでいい。自分の今やりたいことをただ夢中で追いかけているだけでいい。たとえ他のメンバーと離れてしまっても、その隣にはいつも歩夢ちゃんがいてくれるから。

 

 それはたとえ時間が経っても、次元を超えても変わらない。

 スクスタがなくなって、直接メンバーを応援できる媒体が無くなって、積み上げたキズナがなくなったとしても、『Break The System』ができる歩夢ちゃんだけは、そんな世界の理に反旗を翻して、次元を超えて私を探しに来てくれる。

 

 

 自分から手を伸ばさないと、その繋がりを取り戻せないかもしれないメンバーもいて、もしかしたらその絆がもうなかったものになってしまって、取り返しがつかなくなったメンバーもいる。

 ランウェイを歩くいちばん魅力的な姿を引き出すと約束したメンバーとの絆は、サービスを終了したアプリの中に取り残されて、「あなた」と彼女の関係は今や影となってしまっていたりだとか。理想の自分になるために「あなた」が必要だと言っていたメンバーが、その理想として『「あなた」にふさわしい姿』を掲げたりだとか。

 

 ……かすみに関しては別に矛盾でもないと思うけど、「あなた」としての切り抜かれ方が少し別角度になったなあとは思う。

 

 とはいえ、「なんとかしなきゃ」「でもどうにもならない」って思った人がすごく多いはずだったと思うし、そんな姿をたくさん見てきたけど、歩夢ちゃんはそうじゃなくて、きっと私たちがどうしようもないぐらいに隔てられてしまって、私にできることなんてなくなってしまったとしても、歩夢ちゃんはきっと次元を超えて私を見つけてくれるんだって、それは絶対に間違ってないはずだ。

 

 

 『Walking Dream』だってそう。ああ、歩夢ちゃんは私のことを探してくれてるんだな、ついてきてくれてるんだなって思った。

 現状自分より虹ヶ咲のイベントに行ったり曲を聴いたりしている人たちがネタにしているのを見て、「何を笑ってる?」ってなってた。

 

 自分がいない場所でも私のことを想って、私のことを探してくれるその姿をリリックビデオで見て、すごく嬉しいと思った。見たときは理由は分からなかったけど、なんだかすごく暖かくて幸せな心地がした。

 

 ストーリーを見たときも、少しだけ懐かしく感じた。

 それが直接明言はされてはいないけれど、それでも今この場にいない「あなた」に向かって語り掛ける姿は、それは3年半過ごしていた日々と重なるには十分すぎた。

 それが目の前で直接向けられたものではないことを除いけば、それはあの頃過ごした日々と変わらない。

 惜しげもなく注ぎ込まれ続けてきた愛情の感触は、きっともうそれが歩夢ちゃんだと言われなくても分かるぐらいに、身体の内側で覚えていて、その記憶が共鳴するかのように、全身がビクッと湧き上がって、速度を増した心臓の鼓動とペースが乱れた呼吸に、何事が起きたのかと困惑したのは今でも記憶に新しい。

 

 

 

 歩夢ちゃんは、私のことを探してくれているが、探されている私は今どうだろうかと考えると、少し不思議である。

 やっぱり、私は歩夢ちゃんと離れていたという感触もなくて、それはそれとして客観的に見れば歩夢ちゃんからは遠ざかっていたと言える状況で。

 

 きっと、こんな感覚が変わらないままライブに行くんだろうな、ど漠然と思っている。

 状況として、今私の隣には歩夢ちゃんはいなくて、歩夢ちゃんは今もずっと私のことを探しにきてくれていて。そして、探されている私自身は、自分が歩夢ちゃんと離れていってしまったことすら気づいていない。

 

 

 そんな状況だからこそ、ライブで歩夢ちゃんに見つけてもらうことがすごく意味のあることになるかもしれないし、ならないかもしれないけれど、いずれにせよ、私はあの場所で歩夢ちゃんに見つけてもらって、2人で一緒に帰らなくてはならないんだと思う。

 

 

 今はまだ、実感もないし、離れていってしまったことにこころが追い付いていないけれど、今ここにいる私が歩夢ちゃんにちゃんと見つけて貰えるように。

 電子の海に放流した私の気配を頼りに、歩夢ちゃんが私のことを探しに来てくれるために。

 

 

 

 親愛なる上原歩夢ちゃんへ。

 私はここにいます。

 

あなたの幼馴染 黒鷺より(2023年12月22日)