特別な瞬間にその場にいられない辛さは、何度も味わってきた。
どうして今私はこんなところにいるんだろうって思いながら机に向かったり、どうしてあの瞬間私はそこにいなかったんだろうって一人涙を流したり。
去年の今頃は、来年はきっとあの人に会いに行くんだって思ってたのに、本当は今日を笑顔で迎えるはずだったのに。
2020年。表情を変えた世界は、とても残酷で、理不尽だ。
自分の置かれた状況を嘆いて、泣いて。いろんな感情が今渦巻いていると思う。でも、その感情をどうしていいのか分からない。誰かにぶつけようにも、ぶつけていい理由がない。誰かを呪いたくても誰のせいにもできない。吐き出そうにも、その状況に陥っているのは自分だけ。
どうしたらいいんでしょうね。
少し前、2018年の話。
Twitterをスマホから消した私は、予備校の自習室にいた。
『Thank you Friends!!』『No.10』を引っ提げて東京ドームに立った、私の愛する人たちのその舞台に立ち会えなかった事は、今でも「2018」という数字を見たくないぐらいには心に傷跡を残している。
後から映像で、特別な日の彼女たちの姿を見た。
どうしてあの時あの場にいなかったんだろうと思った。きっと、これまでも、これからも、あの日起きた事の意味をリアルに実感できる日は来ないのだろうと思った。それぐらいに特別な舞台だった。
2019年、みんなが「2017年から2018年の駆け抜けた時が一番楽しかった」って語るのが許せなかった。劇場版が公開され、虹を超え、時空を超えたあの年。楽しかったのに、みんなが自分の見ていないものを「もっとよかった」っていうのが癪だった。
まあ、確かに分からなくもない。
19年、結局はフィクションをリアルに再構成するっていうコンセプトに忠実で、ある意味4thライブはイレギュラー。特別なのは、映像で見ただけの自分でも分かる。
分かってしまう。
だから、6thツアーがすごく楽しみだった。大好きな彼女たちの物語とまた出逢えるだけじゃなくて、きっと特別だった4thのように、いや、それ以上の物を見せてくれると思ったから。
2020が一番楽しかったって言えるように、イレギュラーで特別だった過去を、もっと特別な時間で上書きできると思ったから。
未だに読むのが辛くて、わざわざそろえたのに手を付けられていない4thインタビュー。きっとそれと向き合える、「特別」を「過程」だと思えるように、心の整理がつく日が来ると思っていた。
そんな希望は儚く消えて。
未だに4thと、2018年と向き合いきれないまま私の2020年は終わろうとしている。
4thライブの日の予備校からの帰り道。私はスマホの待ち受けの梨子ちゃんの姿を「見たくない」と思った。家に帰って、布団の中で梨子ちゃんのことやAqoursの事を考えなて涙が止まらなかった。
公式サイトで見てしまったセットリストを見て、その場にいられなかった自分を呪った。合格できなかった春の自分を責めた。勉強してこなかった中高六年間の自分を殴りたくなった。
休憩時間にコンビニに軽食を買いに行ったら、Aqoursの新聞が売っていたので買ってしまった。家に帰って、目を通したら胸が苦しくなったので棚の奥のほうにしまった。あれ以来、その記事は読めていない。
初めて聴いた時から大好きだった『Thank you Friends!!』と『No.10』も、次第に聴くのが辛くなってきた。その気持ちは今も変わらないままで、大好きなこの曲と向き合うために、映像を見て、歌詞も読みこんで、梨子ちゃんの事を考えて、考えて、苦しみながら、やっとその場にいなかった人間として、後から見たからこそ言えるあの空間の持つ意味を読み解こうとしたりもした。
……ますます、その場にいなかった事を悔やむ気持ちが強くなっただけだった。
でも、心の片隅では、きっとこれも運命だと信じている自分もいる。きっと、あの時彼女たちをドームへ呼び戻した人たちの中にいられなかったからこそ、18年を経験していないからこそ享受できるものだってあるはずだと。
実際、19年の終わりにそれを経験した。最初のリリイベも校内マッチングフェスティバルも参加できなかった私だからこそ、あの場にいた誰よりもその場にあったものが輝きだと証明することができる。初めての『WATER BLUE NEW WORLD』をラブライブ!フェスで観た私は、比べられ、追いかけてきたオレンジ色を彼女たちの海に変えた瞬間を、世界で一番特別な海として見ることができた。そんな運命も、きっとあると思う。
2021年。延期になったドームツアー。あの日あの場所にいられなかったからこそ、きっと私は、いつか来るその日は誰よりも心が躍って、誰よりも素敵な瞬間を過ごせるはず。きっと、その瞬間は、誰よりも特別でいられるはず。
そうやって整理をつけるしかないと思う。
弱音を吐いたっていいと思う。行けなくて悔しいとか、楽しそうな姿を見たくないとか、そういう気持ちを持つのは何も悪い事じゃないと思う。
それを発信することに意味がないとも思わないし、気分を害するとかそんなことになるとも思わない。
誰かが悔しくて泣くほど行きたかった場所は、絶対に当たり前の場所にしちゃいけないはずだから。
そういう空間だからこそ、私たちにとって特別なのだと思うし、その空間を特別だと思える心は絶対に否定されるべきじゃないから。
「私の分まで楽しんできて」「あなたの分まで楽しんでくる」って、ありきたりな言葉だけど、それを口にする人は半端な気持ちで口にしないでしょう?
参加する側も、自分の今から参加する場所がそういう「特別」な場所であることを自覚できるから、「悔しい」っていう事は場違いな事じゃない。その場所が当たり前にこれる場所じゃないんだって、それを思うだけで受け取り方が少し素敵なものになるとも思うから。
だから今は全力で泣いて。全力で悔しがって。暴れて、嘆いて。それが必要な時だと思うし、きっとそうやって押し殺さずに、「泣くほど好きでいられる事」は、いつかきっと夢の舞台をもっともっと特別にしてくれるはず。
整理なんてつくはずがない。割り切れる訳もないし、完全に目を背けられるようなものなら好きにならない。これからもきっと苦しみ続けるだろうし、思い出すたびに辛い気持ちになると思う。
でも、私は運命を信じているから、その場所にいられない事が何の意味も持たないただの悲しい事だとは思わない。思いたくない。絶対に、いつか「出逢えなかった事」が私の中の最高の特別をもっと素敵なものにしてくれると信じているから。
悔しい思いも、やるせない思いも知っているから。同じ経験をしてきたし、今もまだ悔しいから、言葉に出していなくても気持ちは分かるから。そういう想いを抱える人がいることを知っているから。
だから、運よく参加できる公演に関しては、参加できない人たちの分まで、絶対に誰よりもたくさんの想いを受け取ってくると約束します。
滅茶苦茶になった世界の中で、きっといつかやってくる特別な日を信じて。
一緒に泣きましょう。