#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

なぜ桜内梨子の音楽は美しいのか 後編 『Next SPARKLING!!』

 いよいよ核心的なところに迫っていきます。

 

 

 

darkphoenix505pianoles.hatenablog.com

 

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 これまで、梨子が「微熱」そのものや、「情景」そのものを音楽として出力できるだけのセンスがあること、そうした描写を何度もされてきたことが分かりました。

 

 

 最終回である今回は、

 

・梨子が「美しい表現」ではなく、「美しいもの」そのものを作ることができる理由

・梨子に内浦の美しい情景と結びついた劇伴が「聴こえる」理由

 

 そして、これらの特性を持ち合わせているキャラクターがなぜ桜内梨子であったのかについて解明していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

景色の中に梨子がいる

 さて、ここまでまとめて来た内容を踏まえて、注目したい歌詞があります。

 去年リリースされた楽曲である『水面にピアノ』の一節で

 

青さの果ての輝きが見たい
空と海とが とけあった世界
水面にピアノ 宙に浮かべて弾いてる想像
さあずっとずっと一緒に歌おう

 

 空と海とが溶け合った世界は、梨子が見たり感じたりした情景だったりで、そんな情景の中の青さの果てに輝きを見出したのだと読み取ることができます。

 そして、その景色の中には、ピアノを弾いている梨子の姿もあります。

 

 これが結構重要で、梨子の作った曲が表現ではなく本物である以上、梨子の曲の中には梨子自身がそのまま含まれているということが言えるんですよね。

 

 でも、少し考えればこれって当然で、『想いのカケラ』が『想いよひとつになれ』になった時も、そのカギはその輝きの中に梨子自身がいることでした。

 

 

梨子 「私や曜ちゃんや普通のみんなが集まって、ひとりじゃとても作れない大きな輝きを作る。 その輝きが、学校や聴いてる人に広がっていく。繋がっていく。」

 

曜 「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。 スクールアイドルの中に見つけた輝きなんだ。」

 

 

学校や街の事が大事なのはわかる。

でも梨子ちゃんにとってピアノは同じくらい大切なものだったんじゃないの?

 

その気持ちに、答えを出してあげて…。

私待ってるから、どこにも行かないって約束するから…!

 

 

 また、2期のBD特典の梨子のソロ曲である『Pianoforte monolog』でも、

 

私の中 流れ出した
音がたくさんあるの
綺麗なだけじゃなくて
でもね どこか優しい音が

 

あなたを音で 抱きしめたいの
受け取って この想い

 

 と、楽曲は梨子の中から流れ出るもの、つまり「楽曲=梨子の音」だということが示唆されており、梨子自身の姿がそのまま楽曲の中に存在していることが分かります。

 

 

 梨子の音楽の美しさは、梨子の音楽が内浦の景色の中にある音から生まれており、そして、「表現」ではなく「それそのもの」であることを前回までで説明してきました。

 

 

 

 そして、その内浦の景色の中にAqoursの姿や梨子の姿があり、梨子の見た情景が梨子を含めたAqoursのいる景色であると言えるなら、

 

 梨子の感じ取った情景=梨子自身

 

であると言えそうです。

 

 つまり、そもそも梨子の見た景色は全部、梨子の中で音として見えているのであると言えます。だから、「景色を表現している」のではなく、その音が景色そのものなんですね。

 

 

梨子の「音」は、私たちの中にある

 さて、梨子の楽曲は、梨子の感じた情景の中にある音であり、そしてその情景の中に梨子自身がいるからこそ、その音は「梨子自身の音」であることが分かりました。

 

 ここからは、そんな「梨子の音」がなぜ「美しい」と感じるのか、私たちの感性に訴えかけてくるような音なのかについて探っていきます。

 

梨子は転校生

 少しメタいところから触ってみましょう。

 

 ラブライブ!シリーズの作品のテーマはそれぞれの聖地の特徴に紐づいたものとなっており、特にサンシャイン!!において、キャラクターがそこに根付いて生きている事は重要なものとなっています。

 そんな作品内で、元々沼津にいなかった転校生という要素は、かなり異質な要素であり、梨子のことやサンシャイン!!のことを語るには外せないものです。

 

 だからこそ、そんな内浦の景色の中に梨子がいることは、他のキャラクターと比較して特別扱いされるような要素でもあると言えると同時に、「特別な要素無しに梨子は内浦の景色の中に存在する事はできない」とも言うことができます。

 

 

 これはいろんな媒体で描かれていることで、おそらく桜内梨子というキャラクターに課せられたミッション、キャラクターに内包されるテーマなんだと思います。

 

 梨子は、内浦の人たちのコミュニティの中に入ることに気後れしているような描写が多く、「梨子=沼津の子」となるためには段階を踏む必要があるようです。

 

 おだまさる氏のコミック版『ラブライブ!サンシャイン!!』では、梨子は加入時に自分が来たばかりであることを気にしていたり、

 

 

 

 スクスタのキズナエピソード24話『ご褒美は絶景』、25話『我が故郷』では、愛が梨子のことを「沼津の子だと思っていた」と言うまで、自分のことを「地元」の人だとは思っていなかったと漏らしています。

 

 

 この1連のエピソードがスクスタの3rdSeasonと並行で展開されているのですが、つまり沼津が地元かどうかということは、梨子のテーマとして1シーズン使って描かれるぐらい大切なものであると言えます。

 

 

 幻日のヨハネのリコも、同じものをテーマとしています。

 6話『ひとみしりのハーモニー』でも、よそものであることをに、ヌマヅに馴染めずにいるリコの姿が描かれており、そんなリコにマリとヨハネが手を伸ばそうとしていました。

私は、よそものなので……

 

 

 このように転校生である梨子は、沼津の子の仲間入りをすることがひとつの課題となっており、このよそもの意識をどうにかすることが、沼津の景色の中に梨子がいるためには必須であると考えられます。

 

 

アニメではずっと「よそもの」

 梨子が「沼津の子」になるまでのことについて、アニメ以外の媒体を見てきました。

 

 では、アニメではどのタイミングでそのテーマは触れられたのでしょうか?

 

 実は、明確にそれが描かれている描写はありません。

 しかし、梨子があの物語のなかのどこかでそれを乗り越えたことは間違いない事だと考えられます。

 

 アニメでは、梨子が自分をよそものであると自覚しているような描写がとても多いです。

 また、『キセキヒカル』という『起こそうキセキを!』系のテーマが使われている楽曲が劇場版の『Brightest Melody』直後に挿入されたことから、劇場版終盤には既に梨子は沼津の子としての帰属意識を持っており、自分がいる情景がそのまま曲になるという特性が備わっているのであると言えそうです。

 

 代表的な場面を順に見てみましょう。

 

 まずは、6話『PVを作ろう』では、梨子が内浦の魅力に気づくシーンがあり、そこから、『夢で夜空を照らしたい』が生まれました。

 

 海開きのために地元の人たちが協力しあう姿は、その場に元からいた人たちにとっては当たり前のこと。だからこそ、「よそもの」である梨子の目にはそれが特別なものに映ったという場面でした。

 

 でも、これは裏を返せば、「元から内浦に住んでいた人たち」と「よそものである梨子」を対比して描く表現であり、この作品の中ではまだ梨子は「よそもの」であることが分かります。

 

 そして、2期7話『残された時間』でも、同じように「よそもの」だからこその発言があり、2期後半でもまだ梨子の中に自分がよそものであるという意識があることが分かります。

 

 

 

 

 

 11話『友情ヨーソロー』は、曜の視点を中心に描かれましたが、梨子視点でこの話を振り返っても、梨子が既存のコミュニティに入り切れていないことが分かります。

 

 千歌が「いつか曜ちゃんと一緒に何かをしたい」と言っていた話を、曜は梨子伝手に聞くこととなりましたが、これは梨子にとっては千歌から見ての自分と曜の距離感を突き付けられたような描写であったとも言えます。

 

 Aqours6thライブ<OCEAN STAGE>で『Misty Frosty Love』が披露されたとき、バックスクリーンで11話のダイジェストが流されていましたが、その曲の梨子のパートは、

なかよくなっても特別じゃない
特別な人になりたい なれるの?
ずっと (ずっと) つらい (つらい)
なんで一番近くなれないのかな

と、どれだけ仲良くなっても特別な人になれないことを嘆くものとなっています。

 

 

 千歌との関係性に対するこの意識は2期終盤まで続きます。

 2期6話『Aqours WAVE』のように、千歌に対する役割意識を持って、お互いに千歌のことを任せるような描写は多々ありましたが、それとは別で、曜と千歌の2人だけの空間に梨子が入っていけない描写が何回かありました。

 

 

2期11話『浦の星女学院

 

2期12話『光の海』

 

劇場版

 

 

 ちなみに、曜はたぶん梨子のこういうのを察してめっちゃ気を使ってくれていて、11話『シャイニーを探して』では梨子を自分と千歌の真ん中に座らせたり*1、12話のシーンでは梨子に気づいて呼びかけたりしています。

 

 また、1期11話以降は、曜の方には梨子と千歌の間に入っていけないという意識はないようなので、単純に梨子の側に問題があり、曜と梨子、千歌と梨子との人間関係の間に問題があることに起因している描写だとは言えません。

 

 2期10話『シャイニーを探して』。曜は当たり前のように2人に抱き着くことができます。

 

 

 劇場版の前半、イタリアのパートでも、梨子のよそもの意識はまだ残っているようです。

 『Hop? Stop? Nonstop!』の後、鞠莉と母親が対峙する場面ですが、梨子だけ目線を外しています。

ママやパパが私を育ててくれたように、ここにいるAqoursやみんなが私を育てたの。

何ひとつ手放すことなんてできない。

これが今の私なの。 

 

 鞠莉を育てた景色、鞠莉を育てたAqours

 劇場版まで辿り着いた梨子にとって、それは理解していることではあったと思います。しかし、心の底からそう思えているかどうかと言われると、ここで自信を持って前を向けていないことから、否定せざるを得ません。

 

 

 すこし話は逸れますが、劇場版のテーマは「心が追い付くこと」であったと思います。

 例えば、Aqoursが最後に辿り着いた答えである「全部ここに残っている」ということは、劇場版の序盤どころか、2期の時点で*2既に提示されていたものです。

 

 酒井和夫監督が、劇場版パンフレットで、

世界は変わらないように見えても、自分が変われば世界は変わるんだ。

ラブライブ!サンシャイン!!』はそのことに気づく物語なんです

 とコメントしていたように、実際に「何が起きたか」よりも、それを経験した人々が「どう思ったか」「何を感じたか」、そして、「その認識の変化が何をもたらしたか」に焦点が当たっています。

 

 例えば、行き詰っていた理亞の視界が開けたのは、「自分が聖良の夢を終わらせた」という呪縛から解放され、自分が孤独ではないことに気づくことができたからでした。

 でも、何度でも熱くなるための鍵は、理亞はあの時既に持っていました。ただ、呪いに縛られた理亞の心がそれを受け入れられませんでした。

 Saint Snowの最後の曲であり、理亞の再起の曲である『Believe again』は、本来Aqoursとの決勝を想定しており、従って、理亞はあの時初めてあの曲に込められた願いを知ったわけではありませんでした。

 

 だとすると、劇場版の中で梨子が「自分が沼津の子である」ということを、ただ知っている、そういわれたからそういうことになっているだけの状態から、心の底からそう思うことができるようになったのであると考えたとき、そこに違和感はありません。

 

 

 『Hop? Stop? Nonstop!』の辺りに話を戻しましょう。

 もしあの時、鞠莉の母親と対峙するときに、梨子が目を逸らしていた理由が「鞠莉を育てた景色に梨子がいた」ということに「まだ心が追い付く途中」だったとしたらどうでしょう?

 それより前に、「梨子は沼津の子」であることを示すような描写、既存のコミュニティに梨子が迎え入れられるような描写があれば、そのように考えることは全く不自然ではないと思います。

 

 直前のアニメ2期13話『私たちの輝き』や、劇場版前売り券特典曲である『Marine Border Parasol』では、それぞれ曜と千歌から梨子に対して「大好き」を伝えるシーンがあります。また、前者は浦女の音楽室の音が綺麗であるということを話した流れであり*3、後者は「海の音が聴こえた」直後の台詞でした。

 

 アニメの外側の話ではありますが、アニメ2期及び2期を背負った3rdライブから、劇場版の公開までの出来事の中にも、「その場にいていいのだということを受け入れてくれる」ことを意識させるような展開が多々ありました。

 東京ドームでの4thライブ、そして紅白歌合戦への出場は、かつて先代μ’sも立った場所であり、未だ風当たりの強かったAqoursがそこに立つということは、ラブライブ!シリーズの仲間として両者が対等であることを示しているかのように思えました。

 また、これは後述しますが、4thのテーマである『Thank you, FRIENDS!!』及び『No.10』は、私たちファンに対してAqoursの側から「同じ目線で隣に立っていていい」ということを示している曲でもあります。

 

 ですが、そんな描写と同時に、まだ梨子が自分のことをよそものだと思っていると考えられる発言も多々ありました。

 例えば、屋上のシーン。

ふふ、放っといたら明日でも明後日でも残ってそう

 

 どうしても、発言の視点が他人事なんですよね。

 

 曜からの「大好き」の場面でも、自分が東京から来た人であることに言及しており、自分が地元の子であるという意識はまだ根付いてはいません。

 

 つまり、アニメ終了時点では、梨子は周囲からは沼津の子としては受け入れられており、本人にも受け入れられている自覚はありますが、本人にはまだそうした意識が根付いていないと考えられます。

 そして、『Brightest Melody』や『キセキヒカル』といった、胸に浮かべた情景の中に自分自身の姿がある楽曲が劇中に登場したあたり、劇場版後半になってやっと、そんな梨子の中のよそもの意識には変化があったのだと考えられます。

 

 

「地元」の象徴が、なくなる

 こうして見てみると、アニメで梨子が自分を「沼津の子」であるという帰属意識を持つまでに、他の媒体と比較して相当長い時間が必要となっています。

 

 コミックでは加入時点で、スクスタでは3rdSeasonと並行しており、まだ衣替えしていないため2学期の中盤、ヨハネでは花火大会前なので7月末よりも前にはもう地元に馴染んでいますが、アニメでは卒業式を終えた3月にもなってまだよそもの意識が残っています。

 

 しかし、この作品のテーマやアニメのストーリーを考えたとき、それも無理のないことだと思います。

 なぜなら、ラブライブ!シリーズにおいて学校は「地元」や「聖地」という要素を還元した存在として描かれてきましたが、サンシャイン!!のアニメではAqoursの学校である浦の星女学院の廃校が決定し、またそれが決定した瞬間に梨子たちも立ち会っているからです。

 

 つまり、2期7話『残された時間』以降で梨子が浦女に対して帰属意識を持つ場合、それは同時に自分の還る場所の喪失を受け入れることになります。

 またその物語の中で、梨子のお当番会である2期5話『犬を拾う。』では、出来事を自分にとってかけがえないものとして受け入れるという、「運命愛」が描かれました。

 

 そんな風に受け止める梨子だからこそ、廃校という受け止め難い事を受け入れるのには、他のキャラクターよりも負担が大きいことだと考えられます。

 

私ね、もしかしてこの世界に偶然ってないのかもって思ったの。

いろんな人が、いろんな想いを抱いて、その想いが見えない力になって、引き寄せられて、運命のように出逢う。

すべてに意味がある。見えないだけで、きっと。

そう思えば、素敵じゃない?

 

 

 すべてに意味があれば素敵。そういう受け止め方をしようとする梨子の考え方は、出来事を自分を作り上げるかけがえのないものとして受け入れることを意味します。

 

 ニーチェや九鬼周三らがこれを「運命愛」と呼んだように、受け入れること、愛することとは、存在することを認めることであり、出来事に意味があることは、その出来事無しに今の自分は存在しえないと認めることです。

 

ねえ、出会いって魔法?
会えなかったら 今の私じゃない私
それは淋しい

 

 

 そして、そうした受け止め方は、出逢いと同時に別れすらも、かけがえのないもの、その喪失無しに今の自分は存在しえないものとして受け入れるということを意味します。

 

 

 アニメで梨子が自分を「地元の子」であるという帰属意識を持ち、梨子の思い描いた内浦の風景の中に梨子自身の姿も映っているためには、「学校がなくなる」という事実も梨子にとって必要なもの、もしそれがなかったら「今の私じゃない」と言えるものだとして受け入れることが必要になります。

 

 

 2期5話やDREAMY CONCERTの幕間の今日のAqours、『やあ!行雲流水!?』などで、運命愛について共通するテーマを持つ善子と花丸の2人も、2期13話で廃校となった浦女を去るとき、必死に未練を振り払う描写がありました。

 

 13話での2人の描写を見ると、屋上をひとり去ることができないぐらい善子や、そんな善子に対して、一緒に図書室のドアを閉めて欲しいと声を荒げる花丸は、最後に門を閉めるときに号泣するシーンとは別枠で学校に対する未練が描かれています。

 

 梨子と同じ受け止め方をする2人が、未練を振り払うのにここまで必死であったことから、特に感受性の強い梨子がそれを乗り越えるのはとても難しく、終盤まで引きずる問題であることも無理はないのだと考えられます。

 

 纏めると、浦の星女学院の廃校決定という出来事と、梨子の運命愛という特性が組み合わさった結果、地元に対する帰属意識を持つことを難しくしており、その結果、梨子の胸に描いた風景に自分自身が登場するのは作中でも最終盤になっているということになります。

 

 

 

 すこし脱線しますが、上記のことをもってしても、それ以前の梨子の楽曲の中に梨子がいないということにはなりません。

 『Brightest Melody』の項でも少し触れましたが、梨子の曲は基本的に歌詞先であり、千歌が書いた歌詞の中に梨子の姿があれば、そこから生まれた楽曲には必然的に梨子の姿があることになります。

 また、仮に梨子が地元に帰属意識をまだ持てていなかったとしても、その帰属意識が必須となるような楽曲は、『夢で夜空を照らしたい』だけだと思います。*4

 基本的にスクールアイドルとして頑張る姿が中心となる曲を披露してきたので、地元への帰属意識の有無は基本的に劇場版終盤になるまでは曲作りに影響を及ぼしていないと考えられます。

 

 

 

梨子は「浦の星女学院の生徒」

 そうやって、完全に沼津や浦女に帰属意識を持つことができないまま、劇場版の終盤まで来た梨子ですが、ここで梨子の心境に大きな変化があったと考えられます。

 

 まず、千歌の部屋で作詞作曲の話をするシーン。

 

千歌 「私ね、分かってきた気がするんだ。これからのスタートがなんなのか。」
梨子 「6人のAqoursってこと?」


千歌 「うん。スタートって、0なんだろうってずっと思ってた。
    0からなにかを始めるから、始まりなんだって。」
梨子 「違うの?」


千歌 「うん。違うよ。
    だって0って、今までやって来たことがなくなっちゃうってことでしょ?

    そんなことないもん!
    今までやってきたことは、全部残ってる。

    何一つ、消えたりしない。
    そう考えたら、なんかできる気がした!」

 

 こう話しながら『Next SPARKLING!!』の歌詞を完成させる千歌の姿を、梨子だけが見ているシーンが描かれたり。

 

 

 そして、『Brightest Melody』の後に、『キセキヒカル』が流れながら、浦女のみんなと一緒に次のライブのステージを一緒に作るシーンが描かれます。

 挿入歌の使われ方が限りなく劇伴に近く、劇場版をテーマにした5thライブでも披露されていないことから、実際に完成させて披露した『Next SPARKLING!!』とは少し扱いが違うことが分かります。

 スクスタのストーリー間の挿入歌に近いですね。

 このシーンは、『キセキヒカル』が梨子の作った曲として存在するとも存在しないともいえるような、曖昧な使い方です。つまり、この曲が流れている間に、梨子の中に変化が起きているのだと考えることができます。

 

 実際、このシーンについて、曜が

よく考えてみたらさ、
Aqoursのステージを自分たちで1から作るの、これが初めてかも!

 と発言しており、梨子が長期間に渡って、Aqoursのメンバー以外の浦女の生徒と共同でひとつの作業をするのは閉校祭以来です。

 

 そして、『キセキヒカル』の直後に、静真の生徒たちから、Aqoursへの感謝の言葉が伝えられました。

 

気付いたんだ。僕たちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。

楽しむこと。

 

みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。

僕たちも、本気にならなくちゃダメなんだ。


そのことをAqoursが、Saint Snowが気付かせてくれたんだよ。

ありがとう...

 

 

 この月の発言が決め手だったんだと思います。

 なぜなら、やりたいことをやる理由が「好きだから」「楽しいから」であることを忘れていて、スクールアイドルを通じてそれを思い出すことができたという経験は、1期で『想いのカケラ』から『想いよひとつになれ』を作った梨子の経験と重なるものだったからです。

 

学校や街の事が大事なのはわかる。

でも梨子ちゃんにとってピアノは同じくらい大切なものだったんじゃないの?

 

その気持ちに、答えを出してあげて…。

私待ってるから、どこにも行かないって約束するから…!

 

 スクールアイドルを始めて笑顔を取り戻した梨子が、千歌から背中を押され、曜と想いを通じ合わせ、そして一度は逃げ出した舞台にもう一度立つことができた梨子は、ピアノが大好きだった気持ちをもう一度取り戻すことができました。

 

 

だって、ピアノを弾いてると空を飛んでるみたいなの!

自分がキラキラになるの、お星様みたいに!

 

 

 かつて梨子がスクールアイドルと出逢い、千歌や曜たちと出逢い、そして、ピアノが「楽しい」「大好き」という気持ちを思い出すことができたということ。

 

 そして、今度は、他の人たちが、自分を含めたAqoursをそういう存在として見てくれていて、月たち他の生徒には、梨子は「Aqoursに救われた人」ではなく、「自分を救ってくれた人たち」の中に含まれているのだということ。

 

 それを、自分の経験と重なる形で、立場だけが変わった状態で伝えられたのが、あのシーンだったのです。

 

 

 

 

 因果関係をつけて纏めてみましょう。

 

 

 浦女の廃校の廃校が決まったことは、出来事を受け止める梨子の運命観と相まって、「受け入れがたいものを受け入れなくてはならない」ものとして受け取られ、梨子が地元への帰属意識を持つための障壁となっていました。

 しかし、「今までやってきたことは、絶対に消えたりしない」ということに気づき始めたとき、廃校が決まった浦女の思い出は、少しずつ「受け入れがたいもの」ではなくなっていきます。

 廃校になったからといって、「浦女の梨子」がなくなるわけじゃないんだと思えるようになったからです。

 

 そうやって、廃校が決まった学校に対して帰属意識を持つことに対する障壁がなくなった状態で、浦女の生徒たちと一緒にひとつの舞台を作り、そして、かつて自分がAqoursのメンバーから貰ったものを、今度は他人が自分を見て獲得していることを知って。

 ここでやっと、梨子は沼津が地元で、他のメンバーと同じように沼津のコミュニティの一員で、そして浦の星女学院の生徒なのだという自覚が生まれたのだと思います。

 

 

 

 そのシーンの後、9人で学校に行きます。

 『Everything is here』が流れる中、「なくならない」ことを確認したAqoursは走り出すのですが、その時、梨子の目には涙が光っています。

 

 

 浦女に着いた時点で梨子だけ目がウルウルしているしていることもあり、最初見たときは鞠莉や善子ではなく梨子であることが意外だったのですが、ここまで探ってきたことを踏まえると、なぜこの時梨子だけが涙していたのかも分かる気がします。

 

 

 2期13話で、花丸や善子が必死に未練を振り切り、全員で号泣しながら校門を閉めたのは、それぞれの中で自分たちの帰属先、自分の学校である浦の星の廃校を受け入れる儀式だったと思います。

 自分たちの故郷に別れを告げ、新しい場所に向かうための通過儀礼だったんだと思います。

 

 梨子にとっては、それがこのシーンだったんです。

 

 

 梨子の通っていた学校が浦の星女学院で、梨子は沼津の子で。

 そして、梨子の通っていた浦の星女学院は廃校が決定して。

 そして、沼津の仲間たちと一緒に浦の星女学院に通って、そして、母校の廃校を経験して、今ここにいる、それが他の誰でもない桜内梨子なのであるということを受け入れる儀式が、きっとこのシーンだったんです。

 

 だから、きっと梨子は涙を流していたんです。だって、浦女の廃校は、泣くぐらい悔しくて、辛い出来事だったから。廃校になった浦女は、梨子の母校だったんだと心の底から思えたから。

 

 そして、それを受け入れて、かけがえのないものだとして受け入れて、運命のように愛おしいものとして自分の中に残していくことを決めたからこそ、涙を流しながらも、梨子は笑っていたんだと思います。

 

 

 走って、三津浜に辿り着いたAqoursの9人。

 あえて何のメタファーかは明記しませんが、何らかのメタファーとして、幼少期の9人が紙飛行機を追いかけていく姿が描かれます。

 劇場版の冒頭でも、幼少期の2年生の紙飛行機のシーンが描かれていましたが、ひとつ決定的にちがうポイントがあります。

 

 

 冒頭部分の梨子は、完全によそものとして描かれていました。

 曜も千歌も、不思議そうな顔をして梨子を見つめています。

 

 

 それに対して、終盤のこのシーン。

 千歌が隣を見ると、そこには当たり前のように梨子がいて、それを見て安心した顔をした千歌は紙飛行機を投げます。

 そして、紙飛行機を追いかけていく8人に、後から加わっていく形で、梨子もその後を追っていました。

 

 このシーンでは、梨子が「後から加わった」キャラクターであることは示されてはいますが、それだけです。当たり前のように、沼津という「今まで自分を育てた景色」の中に、「成長前」の梨子がいて、一緒に紙飛行機を追いかけているんですよね。

 それは、沼津という町が、故郷として梨子を受け入れて、そして梨子自身も沼津の景色を自分の故郷、「今まで自分を育てた景色」として受け入れたことを示しているんじゃないかと思います。

 

 走りながら飛んでいく帽子も、梨子がこれまで縛られていたしがらみから解き放たれたことを示しているかのように見えます。

 

 こうして、梨子は長い長い時間をかけて、本当の意味で「沼津の子」「浦の星女学院の生徒」になったのだと思います。

 

梨子の「音」は、私たちの中にある

 ここまで、梨子が

 

浦女での経験はゼロにはならない」ことを知り、

浦女のみんなと同じ時間を共有し」、

かつて自分が千歌や曜にピアノが大好きな自分の気持ちを思い出させてもらったように、梨子たちを見て「やりたいことをやる理由を思い出した」人たちを知るということを経験したことで、

 

心に浮かべた沼津の景色の中に自分自身の姿を思い描くことができるようになったことが分かりました。

 だから、梨子の曲は、表現ではなく、沼津の景色の音そのものであるということができます。

 

 

 さて、こうした性質をもつ梨子の曲ですが、それがなぜ私たちの心に響いて、美しいと思わせてしまう、感動させる力を持っているのでしょうか?

 

 それは、こうした性質を持つ梨子の音は、ラブライブ!サンシャイン!!が大好きな人たち全員の心の中に眠っているからだと思います。

 

 ここまで梨子が獲得してきたものは、すべて作品を通じて私たちが経験してきたことでもあります。

 

 

 今までやってきたことは、絶対になくなったりせず、全て残っていくこと。

 それは、日常生活だったり、ラブライブ!シリーズを追いかける中で私たちが経験してきたことの中のどこかで思い出して、そっと背中を支えてくれることだったと思います。

 

 劇場版が公開されて、4年以上経ちました。

 きっと、あれから私たちはたくさんの出逢いと別れを経験してきたと思います。

 そんな中で、沼津で紡がれたラブライブ!サンシャイン!!の物語が、「思い出は消えない」って背中を押してくれたことがあったと思います。

 

 同じ時間を共有することや、自分の辿った軌跡がいつか誰かに影響を及ぼしていくことも、きっと経験してきたんじゃないかなって思います。

 Aqoursが私たちを『No.10』と呼んでくれた時や、自分の行動や応援が誰かの力になっているのを知った時、その時に見える景色の音って、きっと、梨子が沼津の経験の中で聴いた音に似てると思うんですよね。

 

 

 そして、「沼津に受け入れて貰えた」という経験もまた、沼津を訪れた私たちが経験してきたことだったと思います。

 私たちが沼津のことを「いつだって地元と呼べる場所」だと感じた経験は、それを感じるために長い時間をかけて、そしてやっと「じもあい」の輪の中に入ることができた梨子の経験と重なっています。

 だからこそ、沼津の音、梨子の音を聴いたときに、その景色の中に自分の姿があるように感じられて、すこしノスタルジックな気分になったりするのでしょう。

 

 

 だから、私たちは梨子の音が好きなんだと思います。

 だって、きっとラブライブ!サンシャイン!!という作品に触れて、Aqoursが好きで、Aqoursと同じ景色を見て、そして、そんな景色の中で音が”聴こえる”って、作中での梨子の経験と全く同じだと思うんです。

 

 私たちのこころの中にも、ラブライブ!サンシャイン!!の景色、沼津の景色があって、そこにAqoursがいて、そして、そこにいるAqoursの音そのものが、梨子の音そのものだから、だからきっと、梨子の作る曲を美しいと感じるだと思います。

 

梨子の音が『聴こえた』

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の中で、桜内梨子の物語は、「海の音を聴く」という目標から始まりました。

 海の音を聴いて、いろんな経験をして、いろんなものを受け入れて、そして、いつしか聴こえてくる音が、「自分自身の音」になりました。

 

 そして、そんな自分の中には、「この場所にないもの」「別れを経験したもの」が残っていて、それが消えずに今の自分を作っていることを知りました。

 

 劇場版『ラブライブ!サンシャイン!!』の中で、Aqoursの物語の最後の曲は『Next SPARKLING!!』でした。

 

 開演前、千歌は5人に「聴こえた?」と問いかけます。

 

 その問いに対して肯定で返せるようになったことこそが、梨子の1年間の成長の証であり、『Next SPARKLING!!』の長い長いアウトロが、どうしようもなく人の心を打つ理由なのかなと思います。

 

 

 

あとがき

 

 大幅に遅刻しました。

 締め切りは自分で決めるべきではないですね。

 

 

 本編では書かなかったのですが、こっちに補足程度に書いておきたいなということをちょこちょこっと書いておきます。

 

 作中の『Next SPARKLING!!』では、2番から3年生が加わることとなり、サビからは手を取り合って歌っています。

 この時、本来3年生はその場所にいないということもあり、在校生がそこにいるのか確証がない3年生を手探りで探しているような振り付けが入っています。

 しかし、5thライブで披露された時は、そうした演出はなく、疑うことなくそこにいる人と手を取り合っているかのようなパフォーマンスとなっていました。

 

 この演出が、すごく好きなんですよね。

 ただアニメを再現するんだったら、きっと手探りで手を繋いでいたんだと思います。

 

 でも、ラブライブ!のアニメの背負い方って、ただ振り付けを真似ることじゃないんです。

 キャラクターの気持ちになって、物語の一部になって演じること、それがラブライブ!のライブだと思うんです。

 

 あの日ライブを見ている私たちにとって、「消えない」のは、アニメ及び劇場版という物語であり、それを演じている人たちとの思い出でした。

 だからこそ、あの日Aqoursは固く手を取り合い、そして、私たちは彼女たちに聴こえるように「10」という番号を叫んだんだと思います。

 

 

 

 

 あとがきのことを、書き切れなかった内容を文脈無視で突っ込む場所だと思っているらしいんですが、ここまで書いたらだいぶ満足しました。

 

 

 

 今回3回に分けて梨子の作曲について、アニメに焦点を当てて研究してきました。

 でも、今回書いたことがより顕著に現れているのって、アニメ以降の楽曲だと思うんですよね。

 ドリカラとかキラリラとか、聴いてるだけでAqoursのいる沼津の景色が見えてくるんですよね。

 きっと、今もAqoursがずっと全線で走り続けていられるのって、ある意味で梨子の曲の作り方が「いまが最高」のものを作っているからなんだと思います。

 

 ラブライブ!サンシャイン!!のアニメは、7年以上前にスタートしました。

 基本的に、オタクってアニメ放送中がいちばん熱が入るものだと思います。

 

 でも、そこから時間が経ってもその熱がまだ冷めないのって、やっぱりあの物語が私たちの中で消えないし、そんな消えない景色がそのまま新しい曲になってリリースされ続けているからなんじゃないかなって思ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 梨子ちゃん、誕生日おめでとう!

 大好きだよ。

*1:梨子が曜の傘に入っている都合上、車に乗るタイミングや順番の主導権は曜が握っている(梨子が自由に動きづらい)ため、曜が梨子が真ん中に座れるような乗り方をした可能性が高いです。ちなみに千歌は上着を取りに家に戻っているので干渉できません。

*2:分かりやすいところで言うなら、2期7話で提示された「絶対に消えない思い出を作ろう」とか、13話『私たちの輝き』のダイヤの生徒会長挨拶

*3:曜の「綺麗だよね、この景色」に対して、「東京にいたときにはきっと見れなかった」と、梨子がよそもの意識全開の発言をした直後に、「梨子ちゃんにずっと言いたかったことがあった」と言ってからの「大好き」なので、本稿で取り上げているテーマに直結するシーンだと考えられます。本当に、曜と梨子はお互いの一番の理解者すぎる。

*4:その『夢で夜空を照らしたい』も、東京の大会で0点を付けられたり、新しい学校でのライブで失敗したりしています。