#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

タマゴが先か鶏ヶ咲学園 愛に救われた話。

 ひとつの作品は、様々なテーマ同士が複合的に絡み合って出来ていると思います。

 そして、受け取り手にとって、その中のテーマに優先度が付くことはごく当たり前のことだとも思います。

 

 すごく雑に2つに括ってしまうなら、虹ヶ咲のテーマは「あなたと叶える」ことと、「全ての可能性を肯定すること」だと思います。

 そして、そのどちらに重きを置いているかで、受け取り方はだいぶ変化してくると思います。

 

 

 

 正直に書くと、自分は前者に偏重している側だと思います。主語を大きくするなら、初期から追っている人、アニメ化前から追っている人はそんな人が多い気もします。

 

 自分が応援しないと虹ヶ咲は埋もれてしまうんだ、自分が隣にいないと大切な人が輝けないんだ。

 それが冗談でもなく、現状として突きつけられているかのように思えたのは、きっと本当に初期のころだけの話。今と違って誰も虹ヶ咲に振り向かない中、声を届けるために必死に応援していたあの頃だからこそ、「あなた」であることに心血を注ぐ意味だとか、注がなければならない緊張感とか、そういうものが応援の仕方としてスタンダードなものだったんだと思います。

 

 

 だからこそ、もうひとつのテーマはファンの中で埋もれがちで、鬼頭明里さんや楠木ともりさんの1stでのコメントもそんな状況を受けてのものだったように思えます。

 誰よりも「あなた」でいようとしたからこそ、その子に当たって欲しかったスポットライトが他の子に当たることが許せない。正直すごく分かります。今でも、かすみちゃんだけには負けたくないって思ってます。

 

 でも、それは必ずしも双方のテーマが同じぐらい大切になる理由にはなりません。

 それは、誰にとってもそうだと思います。

 

 

 例えば、「可能性を受け入れること」がそんなに大切ではない人にとっては、アニメ1期はあまり面白くないと思います。

 興味のないキャラクターのお当番会を8話も続けられたら退屈。当たり前です。

 表現の方法がどれだけ優れていたとしても、家族を想う気持ちというテーマが刺さらないなら、『ハルカカナタ』なんて絶対に好きになりません。

 

 逆に言えば、2期は「あなたと叶える」方に焦点が当たっていたように思えますが、1期が名作だという言説がそれなりに定着しているのは、やはり「可能性を受け入れること」が受けてファンが増え、そうしたテーマが好きな人たちが見ているからなのかなと思っていたりします。

 

 

 

 そんな構造でありながらも、このふたつのテーマは互いに補完し合っているようにも思えます。

 例えば、自分が「あなた」であることは、「可能性を受け入れ」ようとする理由になります。

 自分がそうだったのですが、キャラクターのテーマそのものに特に魅かれなかったとしても、「そのテーマが素敵だから叶えたい」ではなく、「『あなた』だから」叶えたいのだという動機付けになることで、結果として推し以外のキャラクターに対して愛を注ぐことができるようになっていたと思います。

 

 逆に、「そのテーマが素敵だと思う気持ち」は、それが「アイドルとファン」という関係性を通して描かれることで応援という行為に結び付き、結果としてそれが「あなたと叶える」という形式を成立されています。

 そして、この図式は今まで何度も描かれてきました。例えばスクスタの1~3rdSeasonでは、徹底して「あなたと叶える」物語を成立させる理由として、主人公である「あなた」がそれぞれのスクールアイドルに対して「そのテーマが素敵だと思う気持ち」を掲げていました。

 アニメでも、「可能性を受け入れる」描写は常に「あなたと叶える」描写に先行していました。『夢がここから始まるよ』も『TOKIMEKI Runners』も、侑が同好会のスクールアイドルを見て感じたトキメキ、つまり「可能性を受け入れる」こと無しに成立しません。

 

 

 

 このふたつのテーマ自体に優劣はありません。強い言葉を使うなら、どちらが欠けていたとしても虹ヶ咲を応援する適性はないと思います。

 「可能性を受け入れる」ことができない人は、度重なる変化の中のどこかで脱落します。「あなたと叶える」気がない人は、文字通り応援を放棄しています。

 

 

 だからどちらも大事だし、作品にとってもファンにとっても欠かせないテーマなのですが正直、「あなたと叶える」ことに偏っていればいるほど苦しかった一面があったと思います。

 

 

 高咲侑が登場した時に、自分こそが「あなた」だと思っていた人たちの中で、気持ちが大きく揺らいだ人は少なくはなかったと思います。

 

 アニメで9人分のエピソードが連続した時も、しんどかった人も多かったと思います。キズナエピソードだったら、嫌いなメンバーや興味がないメンバーに触らないという選択ができました。

好感度の高い数名だけのエピソードを共にして、それで「あなた」を名乗ることがある意味で許されていたからこそ、向き合わなければならないのは、気持ちを揺らがせるに値すると思います。

そういう背景もあってからか、虹ヶ咲は外部よりも身内からの非難に晒され続けた作品だったのが今でも記憶に残っています。サンシャイン!!が否定されながらも好きだと言い続けて来た元同志たちが、アニメの虹ヶ咲を否定している姿は本当に地獄でしたし、2期ではそこに1期が好きだった人たちも加わっていました。

スクスタに関しても、スクスタで紡いだ物語自体は大好きでも、それを取り巻くファンの中の環境は最悪で、特にアニメが好きな虹ヶ咲ファンからバッシングを受けていたのがいちばんしんどかったです。

 

 同じ「あなた」であるはずの人たちに、自分の紡いだ物語を否定され、そしてそれがごく当然のものとして受け入れられる環境ってすごく辛くて、それが応援しない理由に繋がっていた人も多く見かけました。

 

 

 そして本当に、楠木ともりさんの降板やスクスタのサービス終了が連続したことも本当にキツくて、ここでこの「あなたと叶える物語」にもう自分はいらないのだと思って離脱した人は本当に多かったです。

 

 「悩めるせつ菜」だった楠木ともりさんから、「大声で叫ぶせつ菜」である林鼓子さんへの変更それ自体にネガティブな面はなく、むしろせつ菜としては強化イベントでもあったと思いますが、「不器用なせつ菜に寄り添っていたい」という「あなたと叶える物語」を軸に置いていた人が、「もう自分がいなくても大丈夫なんだ」と思ってしまうには十分でもあると思います。

 

 

 それでも、自分が「あなた」であることを肯定してくれていたのが、もうひとつの要素である「可能性を受け入れる」ことだったと思います。

 それぞれ違ったスクールアイドル像を持ち、違った描かれ方をするキャラクターたちを受け入れてきたこと、そして、これからもそうしていくことが、どんなに不安な時でも、自分が「あなた」でいられる理由となっていました。

 

 では、逆はどうでしょうか?

 「可能性を受け入れる」から「あなた」だった人たちではなく、「あなた」だったから「可能性を受け入れ」てきた人たちにとって、スクールアイドルにとっての「あなた」であるという関係性が揺らいだ時、それを肯定してくれる要素はあったでしょうか?

 

 

 なかった、とは言いません。

 ストーリーの構造で言えば、1期3話『大好きを叫ぶ』や12話『花ひらく想い』だったり、スクスタ29章『これが私のスクールアイドル!』8話『思い出した最初の一歩』、40章、41章の『永遠の一瞬』ができるまでのエピソードだったりと、定期的にいちばん近くで支えている「あなた」の存在の重要性を感じさせてくれるように展開が続いており、だからこそ、自分こそが虹ヶ咲を支える「あなた」であることを疑いもしなかった。そういうはずだったんです。

 

 

 

 でも、スクールアイドルと「あなた」をいちばん近くで強烈に結び付けてくれていたスクスタを失ってから、またその結びつきを強めてくれるような出来事があったかと言われると、個人的には何も挙げることができませんでした。

 

 にじたびも結構な公演を配信で見たし、東京は現地に行きました。みんなの「大好き」の声でセツナを取り返したときは流石にちょっとは自分の中の「あなた」が顔を出しました。異次元で歩夢ちゃんが「あなた」に会いに来たと言った時も流石に幼馴染の顔になりました。

 そのほかにもたくさんの展開がありましたし、それなりに触れてはいます。

 

 

 でも、スクスタがあった頃と同じぐらい、自分が「あなた」であるという結びつきを感じさせてくれるような出来事があったかと言われると、少なくとも自分にはありませんでした。

 もしかしたら、にじたびにもっと参加していたり、外部フェスまで足を運んでいたら、「やっぱり自分こそが『あなた』なんだ」と思えたのかもしれません。

 実際、この半年間で自分よりも虹ヶ咲を追いかけていた人たちの中には、そういう人もいました。それでも、彼らほどじゃないけど、全体で見たら自分も虹ヶ咲をしっかり追っている方だと思います。

 

 だから、結構多くの人が同じ苦しみを抱えていたんじゃないかな、と思います。

 もう「あなた」である意味ってないのかな、って。

 

 

 そういうモヤモヤに関しても、大西亜玖璃さん、相良茉優さん、法元明菜さんのような特に「あなた」を大事にしているキャストが声を大にして「あなたが必要だ」と言い続けていた甲斐もあり、虹ヶ咲を追う上での障害にはなりませんでした。

 でも、そういう言葉だけではどうにもならないモヤモヤであったことも確かでした。6thライブでこのモヤモヤをどうにかしたいと思っていたのは、きっと私だけではなかったんだと思います。

 

 

 

 DAY1からDAY3では、なんとなく何か自分のこころの中にある何かが変わって行く感覚こそすれど、まだ吹っ切れた感じは全然ありませんでした。

 むしろ、やっぱり自分は要らないのかな、という気持ちがちょっとだけ強くなっていました。

 

 これに関してちょっとだけ深堀すると、今回の6thはすごくいろんな人が同じ場所にいるんだなって思って、虹ヶ咲の「可能性を受け入れる」という要素を今まで以上に強烈に感じたということです。

 正直交わると思っていなかったタイプのオタクと、のど自慢大会で一体となって遊んだ時間は本当に楽しかったですし、シリーズでも虹ヶ咲でしか成し遂げられないことだったと思います。

 楽曲でもいろいろな形の愛が表現されていましたが、コンセプトが似ている4thアルバム以上に無法だったと思います。

 既存のイメージをさらに強調したようなキャラクターもいれば、意外な一面を見せるキャラクターがいたり。

 八重歯ではないキャストがあたかも八重歯が生えているかのように演技していたり、逆に成人したキャストが演じて初めて完成するのだろうと思わせるような衣装のキャラクターがいたり。虹ヶ咲のどころかラブライブ!の楽曲じゃない曲を歌ったり。

表現においても、「それやっていいんだ」と思わせられるようなものが多く取り入れられていて、今まででいちばん、いろいろなものが「虹ヶ咲の世界なら大丈夫」なんだというように受け入れられていました。

 

 だから、ちょっとだけ思っちゃったんですよね。もしかして、自分って虹ヶ咲のコンテンツ展開のメインターゲットから外れたのかなって。

 今の虹ヶ咲の想定しているメインターゲット層は、こういう雑多さで、いろいろなタイプの人、もしかしたら他シリーズでは受け入れ難いタイプの人なのかもしれない。

作品の展開は「可能性を受け入れる」ことを軸に据えたもので、昔みたいにたったひとりの「あなた」だけに向けられることはもうないのかなって。

 そう思うとすごく寂しくて、どこかでこころの霧が一層濃くなっていくような感覚すらありました。

 

 

 

 迎えた千秋楽。

 私は結構運命とか好きだなって思ってるタイプなので、「この巡り合わせにこういう意味があったんだ」って決めてしまうことにあまり抵抗がありません。

 だからこそ、今思えばこの場所に導かれたのも必然だった、と言ってしまってもいいかもしれません。

 

 

 千秋楽の座席は、ステージのほぼ最前の左端ブロックでした。

 今までの3公演はステージに対して正面の位置取りだったのですが、今回はステージを横から見る角度の位置となっていました。

 

 この景色は、きっと私にとって必要なものだったんだと思います。

 最初のパフォーマンスから本当に印象が変わったんですよね。それまで正面から見ている時は、ひとつの完成品を見ているようでした。いちばんメンバーが綺麗に見えるであろう角度である正面から見るパフォーマンスは圧巻で、まさに最高のものだったんだと思います。

 

 でも、横から見るパフォーマンスはそうじゃないんです。

 作り込まれたフォーメーションは綺麗に見えないし、パフォーマーの表情が見やすいわけじゃない。

 目線だって合わないし、モニターとキャストを同時に見るのもやり辛い。

 

 言ってしまえば、アタリ席に見せかけたがっかり席枠。そんな座席でした。

 

 

 でも、この景色があの時の私には絶対に必要だったんです。

 メンバーが横に並んで、それぞれが重なって見えた時、その姿が不意に自分の中で眠っていた感情を一気に湧き起らせました。

 

 それは、何かを成し遂げた時や、何かを乗り越えた時、朝日が昇ってくる瞬間を目撃したときのようなあの高揚感と全能感。

 今なら何でもできる気がするんだと、自分自身が無敵になったのだと錯覚してしまうような、そんな衝動が全身から湧き上がってくるのを感じました。

 

 正面からパフォーマンスを見ることは、文字通りパフォーマンスを受け取ることに繋がることだと思います。キャッチボールをするように、ステージから発信されるものを余すことなく受け止められる場所が、パフォーマーの正面であり、ファンとしての特等席なのだと思います。

 

 では、横から見る姿は、私たちにとってどのように映るのでしょうか?ファンとしてパフォーマーと対話をするのには、真横という立ち位置は向いていません。

 しかし、この「パフォーマーとの対話」をする立ち位置ではないことが重要だったのです。なぜなら、私たちは、スクールアイドルのファンであると同時に、彼女たちをいちばん近くで支える仲間、つまり「あなた」だからです。

 

 正面からは見えないけれど、その表情がどれだけ凛々しいかなんて、私が一番知っているはずなんです。

確かに、ステージの上という意味に限定すれば、「あなた」にとっていちばん近い立ち位置は正面だと言えるでしょう。でも、それ以外の場所では?

このラブライブ!という作品の中で生きている私たちにとって、虹ヶ咲を応援する上でいちばん最適な場所はどこだったでしょうか?

 

 隣だったんです。私のいるべき場所、私が一番いたい場所、そして、私が「あなた」でいられる場所は、スクールアイドルの目の前じゃないんです。

 彼女たちが今スクールアイドル活動をしているかどうかなんて関係なくて、ただ大切な人の隣にいること、同じ景色が見える場所にいること。

 

 それこそが、「あなた」としていちばん大切なことであり、そして、「あなた」であることが揺らいでいた私にとって一番必要なことだったんです。

 

 

 ソロのパフォーマンスも同じでした。

 確かに、ステージ自体は「あなた」を意識したもので、それを正面から受け取ること自体は「あなた」として何ら間違っていないと思います。

 

 でも、受け取り手としてより「あなた」だと思える時は、具体的に「あなた」だと言われている時じゃないんです。

もっと正確に言えば、私たちは「あなた」だと言われることで、自分が「あなた」なんだなと思うはずなのですが、その言葉自体は自分が「あなた」だと思うための過程に過ぎません。

それがステージに立っているかどうかなんて関係なくて、私達が「あなたである」「あなたでしかない」瞬間。それこそが、彼女たちの姿を隣に立って見つめている時なんです。

 

 前日3公演分見てきたから、というのもあるんですけど、正面から見る彼女たちを「いい顔してるな」って思うんじゃなくて、隣に立って横から見たときに、完全に見えてるわけじゃないその表情がどんなものなのか分かっていて、「絶対今いい顔してる」って思っていること。

 もしかしたら、昨日までとはちょっと雰囲気が変わっていたりしたら、「今日はこういう感じのこと考えてるんだろうな」ってなんとなくわかること。

 

 ステージを左の真横から見ていたら、果林さんや愛ちゃんの表情なんて全然見えないし、その姿とモニターは同時には視界には入って来ません。

 でも、それでいいんです。それがいいんです。

 だって、今果林さんや愛ちゃんがどんなことを考えていて、どんな表情で踊っているかなんて、仮に遠すぎてよく見えなかったとしても、一緒にその場にいて声が聴こえていれば分かります。だって、私はずっと一番近くにいた「あなた」なんだから。

 DAY2に大きなお知らせがあって、なんとなくそれでキャストが動揺しているのも1日目のパフォーマンスを見てれば分かります。

 だって、歩夢ちゃんが笑った時の目尻が下がりきってないし、ちょっとだけ声が上擦ってるんですから。私に隠し事なんて一生しなくていい。

 

 

 この、メンバーを隣から見るっている時間が、自分が「あなた」であることこそが虹ヶ咲を応援する上でいちばん大切だった自分にとっては本当に大切で、そしてなければならないものだったと思います。

 再登場して全体曲に入った時の、一体感も全然違ってきて、それまでは自分の中にある大切なものを改めて握りしめるというか、髪飾りを結びなおすというか、そういうある意味で再確認だとか気合入れみたいな、ひとつの区切りのような感覚の中で曲を聴いていました。

 

 DAY4のそのパートは全然そうじゃなくて、ただそれが当たり前のように感じられたんです。

 特別なことが起きてるとか、ひとつの大切なイベントを経験してるとか、そういうことじゃないんです。これが、私たちなんだ、これこそが、私がいる虹ヶ咲なんだって思ってました。

 

 

 起こっている事としてはライブパフォーマンスを見ているんですけど、感じ方はもはやライブを見てるとかそういう次元じゃないんです。

 ただ、「あなた」である私が大切な人たちと一緒に生きていた。

 

 一緒に笑って、泣いて、頑張って、そして「大好き」って言葉を交わしていた日々の中の、なんの変哲もない1ページを過ごした。

 

 たったそれだけなんです。

 たったそれだけだから、大切なんです。

 

 お知らせや、ダブルアンコールなど、この気持ちを更に確かなものにしてくれたものは色々ありました。

 

 それでも、私がこのライブでいちばん心に残ったのは、ただ私たちがそこで一緒に生きていたということでした。

 やっぱり、この作品に必要とされてるんだなって思ったからです。

 虹ヶ咲として過ごしている日々の中に、「あなた」の居場所があって、そしてそうじゃない虹ヶ咲なんて考えられなくて。

 

 いろんなものを受け入れて、いろんな変化を経験して、少しずつ形を変えていく作品だけど、そうやって「虹ヶ咲として生きる」ためには、絶対に隣に「あなた」がいないといけないんです。

 

 それがどんな人生なのか、どんな景色なのか、そしてこの先に待っているのがどんな未来なのかなんて関係なくて、ただ私が「あなた」だから隣に立ち続けるっていう、そういう「あなた」が絶対に必要なんだって受け入れて貰えたなって思ったんです。

 

 何よりも、私が「あなた」であることが大切だったから、この「ただ隣で同じ時を過ごす時間」を分かち合えたことが幸せで、自分が「あなた」だからいろいろな「可能性を受け入れ」る人になれたと思うから、こんな私を受け入れてくれたことが嬉しかったんです。

 

 

 

 もちろん、作品の方でこんな描き分けがされているかどうかなんて分かりません。

 「あなた」=「可能性を受け入れる人」であって、そこにどっちが上かどうかなんて関係ないんじゃないかって考えた方が自然なんだと思います。

 

 でも、たぶん受け取り手側はそうじゃなくて、「あなた」だから好き、「可能性を受け入れ」ているから好きっていうのはあると思うんです。

 

 

 だからこそ、「あなた」であることに拘り続けてきた自分が、最後の公演でメンバーの横顔を見つめられる位置でライブが見れたのは運命だなって思いますし、絶対に導かれたんだと思います。

 

 言葉じゃ足りないぐらいたくさんの想いが歌に乗せられていて、そして、そうやってできた景色の中に、他の誰でもない「あなた」だけの場所があって、本当に幸せでした。今までも、そしてこれからもずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 構成とか何も考えずに突っ走った文章を4日ぐらい発酵させたのが上の奴なんですけど、ここは弄りたくなので、投稿直前にちょっとだけいろいろ補足しておきます。

 

 自分は「あなたであること」が「可能性を受け入れること」よりも大事だ~みたいなことを書いてはいるんですけど、今回みたいな、「私はこっちが先なんだけど…」ってテーマについて考えるとき以外は、基本的にこれを掘り下げる意味ってあんまりないと思うんですよね。

 

 今回は触れなかったんですけど、「あなたであること」も「可能性を受け入れること」も、「愛」というテーマと絶対切り離せないものです。

 

 九鬼周三やニーチェといった現象学の分野で活躍した哲学者は、「愛」という言葉を「我がものとして受け入れること」という意味で使っています。今の固定ツイの動画でもうちょっと詳しく話してるので、参考までに。

 

www.youtube.com

 

 すごくざっくり言うと、「起きたこと、そこにあるものを、『この世界はそういうもの』であり、『その世界に生きているのが私』であることを『かけがえのないことである』」と受け止めることが「愛すること」だという説明がされています。

 

 ここで取り上げられている「愛」は、拒絶しないことと読み替えることもできます。

 全ての出逢いや出来事に対し、それを経験したものこそが私であるとして、拒絶しない、なかった事にしない。

 「自分」をつくるものの中のひとつとして受け入れて生きていく。

 

 そうした「愛」というものの中には、様々な人格や目的を持った人々が存在していて、そういう人たちと自分が「出逢い」、そして「起きた」ことを積極的に肯定していこうという姿勢が捉えられます。

 

 こうした「愛」によって、「可能性を受け入れること」って説明できると思うんですけど、それは「あなた」であることも同じだと思うんですよね。

 

あなたがいるから私も輝ける ありがとう

 

 『夢への一歩』の歌詞とかすごく分かりやすいんですけど、あなたって、ただサポート役になるだけじゃなくて、共に歩いていくパートナーになるとか、そういう次元のテーマとして描かれていると思うんですよね。

 

 だから、「あなたと出逢わなかったら私じゃない」ぐらいまで言えてしまう愛というものは、「あなた」のコアになってくるようなものなんだと思います。というか、事実です。

 

 そして、その「愛」が今の虹ヶ咲のスタンダードというか、愛をテーマにした楽曲が「これからの虹ヶ咲」の象徴としてお出しされているからこそ、大事なのは「あなた」であるから「可能性を受け入れる」のか、「可能性を受け入れる」から「あなた」なのかじゃなくて、「可能性を受け入れてくれるあなた」がいることだから、「あなた」が先でもいいんだよ、「あなた」としていてくれればそれがいちばんなんだよって受け入れられたように感じました。

 

 

 これ自体が自分の中のモヤモヤになったのは、スクスタを失って「あなた」が揺らいでからで、それまでは特に困ることはなかったんですけど、それでもこのテーマ自体は結構初期からずっと考えてたもので、やっと答えがでたな~という部分もあって。

 

 1stで楠木ともりさんの「他の人の大好きを大切に」って話を聞いたときから考えてたんですけど、歩夢ちゃんに限らず他のメンバーの「あなた」でいることと、せつ菜ちゃんのパートナーでいることの両立ってすごく難しいなって思っていて。

 他の人の大好きを傷つけてでも守りたいものがあるメンバーだっていて、その子とどう向き合うべきなのか、それともせつ菜ちゃんを切り捨てるべきなのか。

 そんな過激な選択は実際にはしなかったし、せつ菜ちゃんの前では大好きで溢れる世界をつくるためのパートナー面したうえで、歩夢ちゃんの前では私”だけ”が幼馴染だから同担を否定するようなことをやってたんですけど、こういういろんな受け入れ方を”使い分ける”ような応援の仕方、いろんな「可能性を受け入れる」人格を作るんじゃなくて、「あなた」としての表情を使い分ける応援の仕方って、想定されてるターゲットなのかな、たぶん厳密に言えば正解ではないんじゃないかなと、たま~に考えたりもしていて。

 

 

 正直、少なくとも今の虹ヶ咲の想定してるファン層からはズレていて、作り手の理想の自分ではないんだろうなってずっと思ってたんですけど、そんな自分も肯定されたような気がしたんですよね。

 

 この作品は、「あなた」のための作品なんだよって。

 

 

 「あなた」が「あなた」としていろいろな「可能性を受け入れ」てきたからこそ、今までも、これからも物語は紡がれていくんだよって、そういってもらえた気がして、それが自分にとってこのライブでいちばん大切なものになったなって思っています。

 

 

 

 

 ……やっぱり綺麗にまとめてどこかで書き直そうかな。