最近やってるゲームで、「トマホーク」が投擲武器として登場していて、それが結構強いんですよね。
トマト→トマホーク→トマカノーテって進化しそう。
さて、今回は「どちらとも取れる」みたいな描写が多くて、先の展開が本当に予想できないなって思いました。
何かは起きているけど、何が起きているか分からない。言語化しようとすると、スルりと手の中から抜けていってしまう感じ。認識の外側から何かを浴びせられている感覚になれるのが、ラブライブ!の好きなところだなって思います。
可可の口悪くて面白すぎ
国籍が違って言語にある程度壁を作ったことで、それなりに育ちがよくて頭がいいことと、口が悪くてお下品な言葉を使うことを両立させているのが、この子の魅力だと思います。
昔のサニパの曲ってこんな感じだったのかな?
で、これたぶん、ただの八つ当たりなんですよね。
後半の「マルガレーテに対する批判的なコメントが~」って時に、「なんで?」ってコメントしてるあたり、昔のことは昔って感じで結構ドライな子なんですよね。(すみれは現在進行形で気に入らないから常に悪口言ってるけど。)だから、別に本気で言ってるわけじゃなくて、普通に悪口言うために掘り返してるだけだと考えられます。
単純に恋に八つ当たりしたいから昔のこと引き合いに出してるの、マジでクソガキ~~~!!!
ラブライブ!の3年生って、世間から見たらお子様なんですけど、グループ内で見たら成熟してる風に描かれがちなので、こういう幼さと大人さを両立させた描き方ができるのが面白いところです。
馬が合わないすみれに対して辛辣なことを言っているのが特に目立ちますが、普通に他のメンバーに対してもこういうこと言うんだっていうのが垣間見えて面白いなって思いました。
クソガキの3年生、愛おしいですよね。
歌の定義ってどうなるんだろうね
2期で言ってた「歌は力」に関してなんですけど、『エーデルシュタイン』はマルガレーテにとっての本当の歌であったことは、様々なメディアで言及があります。
歌は力。
そして私は未来を、私自身の手でビルドする。
また、異次元フェスでは、マルガレーテが歌によって存在証明をする『アライブファクター』、かのんが音を重ねることで高めあう『ハーモニクス』に参加するというような対比がなされており、ラブライブ!という舞台ではLiella!に軍配が上がったものの、かのんとマルガレーテの歌に対する両者の主張は、世間一般的に見れば対等なものであると考えられます。
他シリーズだと、幻日のヨハネの歌に対する立場はこの両者の対立軸を考えるにあたって興味深いものだと言えます。
歌による存在証明、歌によって何者でもない自分が未来を掴むという主張は、初期のヨハネの行動原理であると言えます。しかし、ヨハネが13話で最後に辿り着いたのは、声を重ねるという歌い方でした。
でも、歌による存在証明という夢自体は先送りにしただけで捨ててはいません。
声合わせて 僕ら一緒だよ (一つに)
いつまでもずっと
声合わせて 色を重ねていこう (一つに)
BLOOM OF COLORS
BLOOM OF COLORS (ヨハネ以下9人、ライラプス)
スーパースター!!では今のところ、マルガレーテとかのんの二項対立のように見えて、「そもそもステージに立って歌うことが非生産的行為」だと主張する冬毬という第三の視点が現れることで、深みが増しているなと思います。
冬毬からしてみれば、そもそも歌唱行為自体に価値を見出していないので、かのんもマルガレーテも言っていることは対して変わりません。どちらも、歌唱に何らかの価値を見出しているという点では同じなので。
これがもしかしたらミスリードとして使われているのか、それとも単純に第三勢力として使われているのかは、先を見てみなければ分かりません。
スーパースター!!的には、みんながかのんみたいに思ってくれることが理想である、と描かれても分かります。マルガレーテの描写もそういう風に汲み取れますし、トマカノーテの、1年生2人とそれを導く3年生だという組み合わせにらしさが生まれます。
逆に、かのんとマルガレーテは本質的に変わらないのだという描かれ方をしても分かるなぁと思います。
歌の性質を巡って対立した2期と、何かを歌うということの価値をテーマとした3期、として考えたら、すごく続編として綺麗だな、なんて。
実際、根源になっている部分がかのんとマルガレーテが似通っていることに関しては、今回の描写からも十分読み取れる範囲だと思いますし、テーマとしてもそんなに無理のあるものではないと考えられます。
これは今までのラブライブ!での描写を考えると、「歌の力で自分の未来を作る」ことと、「歌で心を繋ぐ」ことは両立できるんじゃないかなって思うんですよね。
今回、マルガレーテは2期のラブライブ!大会に対する発言のしっぺ返しを食らうこととなりましたが、それに対する反応はかなり読み取りの幅の広いものだったと思います。
「反省している」とも、「反省していないけど受け入れている」とも取れる範囲なので、そういうのも含めて、先が読めなくてワクワクしますね。
……もうちょっと掘り下げて書こうかな。
前回も含めて、マルガレーテはLiella!のことを明確に敵だと発言しています。
そして、それはラブライブ!大会やスクールアイドルを取り巻く環境も同じだと思うんですよね。
Liella!視点で見ている視聴者からしたら、マルガレーテはヒールだったと思いますが、果たして、マルガレーテは未熟だった、0:100でマルガレーテは悪であるかと言われると、個人的には全然そういう風には思えません。
むしろ、マルガレーテ視点からすると、大会ラブライブ!及びスクールアイドルの評価基準が終わってるし、Liella!はその終わってる価値観の権化なんですよね。だってそうでしょ?「心を結ぶ」って聞こえはいいけど、輪の外から見たらただの身内贔屓です。
競技だからより優れているものが選ばれるのは当然です。そして、Liella!の価値観からしたら、よりたくさんの人と心を結ばれているグループが優れているのは至極当たり前の理屈ですし、それが競技上優れていることの説明として成立しています。
しかし、マルガレーテの価値観からすると、「共感」だとか「親近感」みたいなもので正当な評価が歪められているように見えるのも当然ですし、それらを排した価値観が否定されるべきものかと言われると疑問が残ります。
とはいえ、結果としてマルガレーテは負けました。敗者は何を言っても言い訳にしかなりません。
ですが、その主張だけに注目して見ると、実はあながち間違っていないんじゃないかなと思います。
「学校の知名度も生徒の人数も少ない」という、圧倒的に身内がいなくて不利な状況だったのにも関わらず、パフォーマンスの完成度だけですべてを覆したグループがいるんですよね。Aqoursって言うんですけど。
あそこの描写って、ある意味では「歌は力」であると言えなくもないラインかなって思うんですよね。
だから、歌は「敵を屈服させる武器」みたいな思想って、あながち間違ってないんじゃないかなって思うんですよね。
実際、幻日のヨハネでは歌の力でヌマヅの異変を解決していますが、これは歌が「未来を切り開く武器」であるという風に描かれていると言えます。
現実のパフォーマンスとかも見てると、むしろLiella!の主張の方が実は異端なんじゃないかなって思います。
Aqoursの『WATER BLUE NEW WORLD』とか、虹1stの『CHASE!』とか。心を結ぶためというよりも、「相手なんて関係ない」って全部水没させる曲とか、明確に「敵」を睨みつけるような曲とかが、歴代でも名曲、名パフォーマンスとして語り継がれている以上、「歌は力」「敵を分からせる」みたいなのって、全然否定できる主張じゃないんですよね。
だって、うぉたぶは諸説あるにしても、虹1stの『CHASE!』の楠木ともりさんは全然笑顔じゃなかったから。大好きが傷つけられ続ける世界と1人で戦っていた彼女が笑顔でいられたはずなんてないから。
とはいえ、やっぱり『エーデルシュタイン』と『Sing!Shine!Smile!』がバトルしたら100回やっても『Sing!Shine!Smile!』が勝つんですけど。(114514回言ってる)
現地で体感したら露骨すぎて笑えるレベルなんですけど、登場しながらのクラップパートで会場全員がLiella!の味方になるんですよ。この「あ、勝ったわ」ってスタートする感じが、「最強」じゃなくて「無敵」な理由だと思います。
こんな感じで結局マルガレーテが敗者だから、今のところ「かのんの主張にマルガレーテが改心していく」みたいな描写に見えてるんですけど、スーパースター!!としてじゃなくて、ラブライブ!として見たらマルガレーテの主張って別にそんなにズレたことは言ってないんですよね。
負けた後の反応がマズかったのでこんな感じで描かれてるんですけど、実はLiella!が正義マルガレーテが悪みたいな感じじゃなくて、正義と正義がぶつかって、結果片方の正義が負けたってそれだけなんですよね。
三国志の正史だと魏蜀呉それぞれに大義名分があるんですけど、三国志演義だと蜀視点になるので魏が悪者扱いされるって、そういうのに似た感じなんじゃないかなって思います。
というわけで、大会でのマルガレーテの反応と、その結果がミスリードになっていて、実はかのんの思想にマルガレーテが染まっていくっていう単純な話じゃないのかもねっていうお話でした。
いずれにせよ、ここまではあくまで今までのラブライブ!ではそうだったっていうお話で、これから描かれるスーパースター!!で描かれるのがそういうものなのかは分かりません。
これからの注目ポイントですね。
描写から読み取れるスーパースター!!のオタク像、面白い
トマカノーテに対する批判的なコメントが来るのは、まあ分かるんですよ。(2年ぐらいリアルでそういうのを見ているため)
注目すべきは、このシーンです。
間違えました。このシーンです。
トマカノーテの視聴者が8000人ちょいなの、めっちゃ笑いそうになりました。
これ3つぐらい理由があるんですけど、全部メタいんですよね。
ひとつ目は、最初の「少ない中のライブ」にしては数が多すぎるだろ!っていう面白さ。見立てよりは確かに少ないかもしれません。
でも、最初のライブって比較をするならμ’sの8000倍ってなるんですよね。流石に大成功過ぎるだろ!!!ってツボった人もいるんじゃないかなって思います。
まあ、こういう作中の役割が異なるものを表層で比較してとやかく言うのを野暮っていうんですけど。
2つめは、8000前後っていう数字の生々しさです。これ、だいたい武蔵野の森スポーツプラザでライブしたときの収容人数ぐらいなんですよね。
8000っていう数字を何の数のメタファーと取るかによるんですけど、少なくともマルガレーテが好きな人ってだいたいそのぐらいの数なのだろうっていう最低保証って言われると、ちょっとしっくりくる数ではあります。
で、3つ目がいちばんおもしろいポイントです。
この8000っていう数字を比較するのに、冬毬が挙げていた5万以上に興味深い数字があります。
そう、1話でチラっと見えた、オニナッツチャンネルの動画の再生数である120万です。
あの動画を見る層って、少なくともスクールアイドルに多少なりとも関心がある人だと思うんですけど、それと比較して実際にライブを見に来る、しかも現地以上にハードルの低い配信で8000人しかいないというのはどういうことなのでしょうか?
冬毬の言った5万のうち42000は、マルガレーテのアンチでリタイアしたにしても、残りの115万人はゴシップ好きの野次馬だってことなんですよね。
リアリティがヤバすぎる~~~!!!
この数字が花田先生の発案だとしたら、たぶんウッキウキで設定していると思います。人間ってこんなもんだよね、大衆ってこんなもんだよね、世界ってこんなもんだよねっていうリアリティの中で、いい感じに胸がしんどくなる数字が設定されていて、その絶妙さが本当に面白いんです。
120万に対する8000。人数か再生数かという違いは、メタファーである以上そこまで大事ではなさそうです。
分かる~っていう数であると同時に、母数に対して少な!という値です。
だいたい0.6%ぐらいなんですよ。ちゃんと配信まで見に来る層って。
しかも、全体の3%はアンチで、残りの96%はそもそもスクールアイドルを見てすらいない人たち。
つまり、大衆って火種があるところで騒ぐだけ騒ぐけど、基本的にその中身には無関心だよね、大事なのは内容じゃなくて火種があるかどうかだよね~ぐらいの描き方をされていて、それが絶妙に納得感のあるラインなんですよね。
相反する2つの命題があったとき、矢印だけ見てその内容を見ていない感じ。大衆ですよね。
なんというか、世界や人間のことを全然信用していない感じ。性悪説。そういうのがエグい描かれ方で作品のバックボーンとして使われてるのが、本当に見ていてゾクゾクします。
1期から思っているんですけど、この作品を作っている人たちは視聴者層がどういった反応をするのかをある程度シュミレーションして、その反応まで織り込み済みで物語を作っているように思えます。
1期は、何者でもない人たちが何かを始める動機づけとなるような構成だったと思いますが、わかりやすく「すべて喋る」かのんを中心としていることから、それが狙いだったのだと思います。
2期は逆に、かのんを動かしているように見えて、具体的な決断を「言葉にしない」キャラに委ねることで、「1期から流れで見た時に分かりやすさにギャップがある」上で、「Liella!と同じように頑張る経験をしてきた人には共感できる」描写が多かったです。
結果として置いていかれている人たちを多く見ましたが、彼らは「Liella!みたいに頑張らなかった人」や、「言葉に依存しない」スクールアイドル感を持っていない人だったと思います。
で、たぶんそういう人って、コンテンツ内でのマーケティングの役割や、想定しているファン層からは元々外れてる人だと思うんですけど、3期ではそうした層が存在していることすらも織り込み済みで、上手く舞台装置として使っているなと思います。
だって、彼らがスーパースター!!を否定すればするほど、「大衆はマルガレーテを否定するよね!」「世界ってこんなもんだよね!」っていう描かれ方に説得力が出るからです。
正直、「批判的なコメント」の一連の流れを見て、「あいつらじゃんウケるw」ってなった人って多いと思います。
「うわ俺だ……」ってなった人もいると思います。
そうなった時点で、私たちは彼らの掌の上なのかもしれません。
このテーマについて、たぶん自分の世界や人間に対する感覚と花田先生の感覚がすごく近いんだなって思います。
他作品も含めて、先生の作品やインタビューを見てみると、だいたいこんな感じなんですよね。世界に対して期待なんて全然してないけど、そんな世界を「愛したい」と足掻こうとするのが「生きる」ってことだよっていう描き方。本当に好きです。
かのんとマルガレーテってそんなに変わらないよねって話
で、そんなどうしようもない世界だからこそ、そこで懸命に生きるキャラクターたちが一層魅力的に見えるんですよね!!!(これ前回も書いたな)
今回ピックアップするのは当然のごとくマルガレーテ。
というか、『Bubble Rise』。
正式な表記は分からないと予防線を貼ったうえで、好きなフレーズをいくつかピックアップしてみます。
出だしのマルガレーテのパートが
希望はあぶく
空を目指して登ってくの いつでも
で、それに対するかのんのパートが
前が見えない暗闇なら
上を見てみればいい
と続くのが、それぞれの思想を反映していて、なおかつ微妙にズレているのが好きです。
結那だから「希望」と「気泡」も掛かってそう。
かのんパートでは「深海でも上を見れば光が見えるよ」って感じの、サンシャイン!!の「転校生をつかまえろ」みたいなことを言ってるんですけど、マルガレーテのパートをよく聞くと、そもそもこのパートって上を見てるんですよね。
しかも、空を目指すあぶくって、絶対に空にはたどり着けません。なぜなら、あぶくは水中にしか発生しないから。
ここからは、マルガレーテにとって「希望」は叶わないものだということが読み取れますね。そこに、かのんの言うような、視点を変えれば光が見えるということが介在する余地はありません。だって、その上にある光には届かないって話をしているからです。
ただ、このズレが重要なんですよね。
なぜなら、先ほど触れたように、冬毬からしてみれば、かのんもマルガレーテも本質的には同じであるという捉え方ができるからです。
打ち砕かれ (ここで冬毬がワンフレーズ歌ってるけど聞き取れませんでした)
それでも消えない (冬毬が「美味しい」みたいなフレーズを言ってるけど聞き取れません)
好きの気持ち そうそれが強さなんだ
諦めないよ どんな場所でも
夢は溢れ出すの
続くパートでは、冬毬視点におけるかのんとマルガレーテの共通点がガッツリ触れられているんですよね。
「”好きの気持ち” そうそれが”強さ”なんだ」の部分とか、すごく象徴的だと思います。
かのんは「諦めないキモチ」がキーになるキャラですし、マルガレーテは目的のためなら手段を選ばないし、負けてもなお足掻きまくるキャラクターです。
Bubble Rise
光に両手伸ばそうよ
だから、世界や夢に対する認識や、それに対する向き合い方が全然違っていたとしても、「打ち砕かれても消えない夢」を持ち続けられる強さを持っていて、それが行動の軸になっているという点で、本質的に2人は同じなんですよね。
サビに入ってから続く冬毬のソロパートで、それが綺麗に纏められていますね。
叶えたいって駄々をこねてたいよ
これが、澁谷かのんであり、ウィーン・マルガレーテってキャラクターだなっていう、納得のフレーズです。
この曲のすごいところって、かのんとマルガレーテの思想両方を反映した上で、どちらの願いもある程度叶ったと考えられるところだと思います。
かのんとマルガレーテは、本質的には同じだと書きましたが、それはあくまで冬毬にとって、視聴者にとってのお話です。マルガレーテはかのんに心を開いているとはまだ断定できないため、彼女たちにとって、相互に同一性を感じているとはまだ言えません。
ですが、一緒に歌うことを通して、異なる思想をぶつけ合いながら、共通点に辿り着くことができたのだと思います。これって、「歌で心を結ぶ」ってことなんじゃないですかね。
同時に、この曲によってマルガレーテは、「自分はこうなんだ」「これが私なんだ」っていう存在証明ができたんじゃないかなとも思います。
マルガレーテの去年の発言が原因で、世界中が敵だったとしても、「うるせー!しらねー!声届け~!」って、敵だらけの世界で手を伸ばそうとする自分を「分からせる」ってことが、できたって判定でいいんじゃないかなって思うんですよね。
それは、力である歌で自分の未来をビルドすることができていることになります。
そう考えたら、やっぱりかのんの主張もマルガレーテの主張も、どっちも大事なんじゃないかなって気もしてくるんですよね。
途中までは普通にかのんとマルガレーテの勧善懲悪みたいな感じで行くのかなって思ってたんですけど、曲を聞くと「もしかして違うんじゃない?」ってなるあたり、2人とも歌が本体みたいなキャラクターだなって思います。
この、叶えたいと駄々をこねながら必死に生きてる感じと、どれだけ言葉や態度でいろいろ語ったとしても、それ以上に歌が何よりも雄弁に自分のことを語っている感じ。
かのんやマルガレーテのそういうところが、好きだなって思います。