ラーメン二郎とか茶化しに来た奴は殺します。どうも、黒鷺です。平安と近代と文学史が得意です。
historyとstoryって、同じ語源なんですよね。ラテン語の「事実の探求により得られる知識、探求、物語、歴史の説明」ってのがルーツだそうです。実際、歴史って基本的には語られるものですよね。大化の改新を見た人は現代にはいないでしょう?
まあだから、storyを「歴史」と訳しても別に間違いではない訳で。テストではバツ貰いますけど。
で、だからってなんでこんな事を言い出すかって、物語と区別したいから。無印と同じくサンシャイン!もstoryな訳ですけど、じゃあ同じ系統のstoryかと言われると違うでしょう?
例えば、同じ物語られ方としても、無印のアニメのμ'sとAqoursから見たμ's、スクスタのμ'sは別な訳で、同じ「叶える物語」でも、無印のそれとは違って、サンシャイン!作中で鹿角聖良の語るμ'sは伝説、神話のようで。(余計な話をすると、部外者、余所者としての役割を持つ桜内梨子には「普通」と一蹴されていたりする。)
似たような話、このコンテンツにおけるキャラクターは、大まかな概念を前提としてそこに作り手ごとの描き方が反映されて生を受けているわけですし。桜内梨子の持つ類稀な繊細な感性を、風景画や音楽といった創作の力として描く人もいれば、様々な物の内側に入り込んでいく理解や解釈の力として描く人もいるわけで。これは普段キャストの話でもよく口にしてるので、普段僕の話聞いてない人は意識するように。キャラに寄せるタイプのキャストの発言を武器に適当なこと言ってる奴らお前の話をしてるんだぞ分かってんのかハゲ。
まあこの辺りはそうなんだって読み流して貰ってもいいんですけど、要は同じ題材でも語り手によって物語は全く違う表情を見せるって事をここで理解しておいて下さい。大鏡と栄花物語とか分かりやすい例ですよね。
さて、みなさんはバスティーユ牢獄襲撃事件をご存知でしょうか?いやお前日本史選択だろ何言ってんだ頭沸いてんのかって話ですけど、まあ中学でやってたのは世界史w(聞いてない)
この事件、フランス革命の単元で、その始まりとして習うんですけど、別にこれって、パリの民衆が「今からフランス革命を始めるぞ〜!うお〜!」って始まった訳じゃないんですよね。バスティーユを契機に出来事が連鎖していって、その結果として王朝が潰されたのを、後の歴史家達がフランス革命と名付けたってだけの話なんです。
歴史ってそうやって後から定義づけられるもので、その時生きていた人間にはそんな定義なんてない訳で。
今大河ドラマで放送中の西郷どんでちょうど明治維新期やってますけど、あれだってそうでしょう?その当時では小さなことかもしれないけど、それは後の歴史家にとって見過ごすことの出来ない大きな意味を孕むかもしれない。
生麦事件ってあるじゃないですか。藩主の行列の前を横切ったイギリス人が斬り殺された事件。あれの報復として、薩摩がイギリスと戦争になるんですけど、まあ小国の一地方と大国じゃ相手にならないんです。でも、薩摩の大砲の唯一英国船に届いた一発が、丁度司令官室に直撃した事で、薩摩とイギリスは講和を結んだのです。その後薩摩とイギリスは接近し、日本には大量の最新の武器が入ってきて、それが江戸幕府を降伏させ……って、ただの斬り捨て御免がこんなにも大きく歴史を動かすわけです。
でも、繰り返しますけど、西郷斉昭だって別にこれを目的にイギリス人を斬り殺した訳じゃないんです。歴史っていうのは、後から意味が追加されるのです。
この話、私たちは絶対に知ってますよね。だって、ラブライブ!サンシャイン!ってそういう話でしょう?私たちが目撃したのは、ただの断片的事実が歴史として繋がっていくその瞬間だった。1人の少女の来訪、そして出逢い。
ある人にとってはそれはその時点で意味を持っていたかも知れない。でも、それが本当にキセキになったのは、その時よりもずっと後。
私思うんだ、奇跡を最初から起こそうなんて人いないと思う。ただ一生懸命夢中になって何かをしようとしている、何とかしたい何かを変えたい それだけのことかもしれない。だから!! 起こせるよ奇跡!私たちにも!!
彼女たちにキセキは起こせないんです。霧の中で迷って泣いて、どれだけキセキを願ったって、その霧はますます濃くなるだけで、奇跡的に視界が開けるなんてありえない。だから彼女たちは足掻き続けたし、立ち上がり続けた。
私たちは、何度彼女たちの涙を見ただろうか?彼女たちは何度屈辱を味わっただろう?神話と呼ぶにはあまりにも弱々しかった。夢物語と呼ぶにはあまりにも残酷だった。最終的に彼女たちの手にした栄光を彩るのに、それらは少し醜すぎやしないか?その輝かしさは色褪せやしないか?
神はたまに悪戯をするから憎たらしい。
私ね、もしかしてこの世界に偶然ってないのかもって思ったの。
いろんな人が、いろんな想いを抱いて、その想いが見えない力になって、引き寄せられて、運命のように出逢う。
すべてに意味がある
彼女たちの出逢いをキセキだと意味づけたのは、後の歴史家でも、それを目撃した私たちでもない。その場にいた彼女自身が歴史家となり、断片的出来事をキセキだと物語る。彼女たちらしいのは、この時点ではまだ彼女たちは栄光を手にしてはないない事。キセキだと意味付ける根拠を、まだ彼女たちは手にしてはいなくて。
そう思えば、素敵じゃない?
そして気づく。例えその時にはまだ何の繋がりもない出来事や、誰も動かす事ない思いだとしても、そこにいる人たちは何を思うだろう?確かに英人を斬った斉昭は、ただ純粋に行列の前を横切る不敬に対して怒っていただけなんです。しかし、維新のあの時を生きる者は皆、ひたすらに日本の明日の為にその魂を燃やしていたのではなかろうか?立場や思想は違えど、それぞれ信じる物の先にあったのは日本の明日ではなかったか?歴史は常に偶然の積み重なり、だがその偶然を導くのはいつだってその時代を生きる者。英国から輸入された最新の武器だって、それを手に取る者がいなければ幕府を倒す事は無かった。全く違う立場にあったもの達が、同じ明日を目指して手を取り合い結ばれた薩長同盟無しに維新は成し遂げられなくて。
バスティーユだってそう。あの時その場にいた民衆のいったい誰が、この事件が全く無意味で価値のない者だと思っていただろう?そこにいた誰もが、現状の打破を望んでいたはずで。だから、重なった偶然が一つの結末に繋がっていくんです。
私たちが目撃したのは、そうして歴史が変わっていくその瞬間。そして、のちの歴史家ではなく、その時そこにいた彼女たち自身が、そうした歴史的意味付けを行う時。
確かに、高海千歌はいままで何の挑戦もしてこなかったし、何の成功もして来なかった。でも、彼女の成功に繋がったのはそんな事じゃない。彼女の成功の要因は、今まで彼女に救われてきた人たちと、彼女が守り、そして作り上げた場所。その時点では繋がりのないそれらを彼女の功績だと称え、彼女の持つ力だと見出すこと。
それって、結局は歴史を物語る事なんです。だって、何が成功に繋がるかなんて分からないし、どんなに説得力のある理由付けだって、実際に結果にならなきゃ分からない。
でも逆に言えば、結果に繋がれば何だって意味を持つんです。
今や誰も疑う事なきキセキの象徴である、高海千歌との二つの出逢い。それをキセキだと証明してみせたのは、そのキセキからずっとずっと先の出来事。でも、彼女たちが選んだのは、出逢いをキセキにするために歩むという道。
もしかして今抱えている想いや今死ぬ気で頑張ってる事だって、結果に繋がらないかもしれないし、それが未来に何の影響も与えないかもしれない。
でも、そうして必死に生きている人たちの中に、いつかそれが一つの大きな繋がり、流れる歴史の転機となると信じない者はいないと思うし、そしてそれを成し遂げキセキを証明した彼女たちのSTORIESへ、私は歴史という最大の名誉ある称号を送りたい。