きっと、この世界にはあのステージが呪いになってしまった人たちがたくさんいる。
目の前にチャンスがあって挑戦してみたものの、狭き門をくぐる事ができずに涙した人。
新たなコンテンツの始まりを素直に喜べない。もしかしたら、ちょっとだけ未来が違ったなら。そこに立っていたのは私だったかもしれないのに。
純粋なエールだけでなく、そんな複雑な想いも同じぐらい寄せられていた初舞台。
きっと、これからも。彼女たちの歌声が聴こえてくるたびに、あの日流した涙を思い出してしまうような。
選ばれた者の姿が呪いになってしまうような、そんな人たちがこの世界にはたくさんいて。
だからこそ彼女たち、特に一般公募組の2人には、通過儀礼が必要だった。
自分が勝ち取ったステージに立つことができなかった人たちの想いも、夢も、無念も、絶望も、全部背負って歌い続けるための通過儀礼が。
それは、オーディションの課題曲にもなった先輩たち、特に2代目の先輩が物語のクライマックスを迎えるにあたって通ってきた道。
勝ちたいですか?千歌さんがいつか、聞きましたよね。
他の誰でもない「わたし」が、他の誰かがどうしても立ちたかった舞台で私を叶えるために。
他の誰かの希望を絶望に変えてでも、自分の夢を貫き通すために。
「もしかしたら」なんて思わせない程、圧倒的で絶対的な説得力で分からせるしかない。
自分に縁が無かったんじゃない、この人じゃなきゃダメだったんだ、自分じゃこの人は絶対に越えられない。
諦めがつくぐらい、笑えてくるぐらい。絶望するなんておこがましいぐらいに、格の違いを見せつけて。
諦めがついて、吹っ切れて。ひと時の夢が呪いから願いになるぐらいに。叶えたかった夢を安心して託してもらえるように。
ドキュメンタリー映像で「歌で誰かを笑顔にしたい」「最後の挑戦をしたい」という言葉を切り抜いたあと。
客席から披露された『私のSymphony』は、かつて彼女たちが客席にいた側だという事を意識させるには、夢破れた者たちのトラウマを思い起こさせるには充分すぎた。
アコースティックで披露された『始まりは君の空』は、彼女たちの歌声の絶対的な説得力を見せつけるには充分すぎた。
特に、MVでマイクを構え世界と相対する澁谷かのん。無印の女性シンガー、サンシャイン!の小原鞠莉、虹ヶ咲の優木せつ菜といったメンバーを思わせるそのシンボルを背負うだけの説得力がそこにあった。
どうしても、伊達さゆり、青山なぎさ両名でなければならなかった。
彼女たち以上に、この物語を背負うことのできる者などいるはずもなかった。
きっと、だれもが頷かざるを得なかった、認めざるを得なかった。
この人たちは選ばれるべくして選ばれたのだと。
きっと彼女たちもそれを分かっていたのだろう。
涙1つ見せず、弱音1つ吐くこともなく、ただただ前を見据えるその姿に、ラブライブ!というコンテンツの恐ろしさと、新時代を背負うものの覚悟が垣間見えた気がした。