#てつがくのドンカラス

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逢田梨香子 1st LIVE TOUR 2020-2021「Curtain raise」東京公演レポート

 白いホールに降りた幕にこれからスポットライトを浴びる人の名前が刻まれ、等間隔に空いた座席に座る人たちは同じ名前を待つ。

 

 待っている人々も多種多様。初めて彼女に会いに来た人、ずっと好きで追い続けてきた人、これから好きになるために訪れた人……。そこにいるはずだった人の想いを背負ってきた人、本当はこの場にいなかったはずだった人も。

 

 静まり返った会場に響き渡る、開演時間が迫っていることを告げるアナウンス。

 

 期待の数だけ注がれる視線の中。きっと誰もの目には開幕の予感が映っていた。

 

 

 

セットリスト

 

 

0.『Curtain raise』

 幕に刻まれたその名前を仄かな光が照らす。神秘的な鐘の音が響き渡り、四方から交互にたくさんの色がステージを彩る。青、黄色、ピンク、赤……彼女の楽曲の中で描かれてきた色たちが集まって、消えて、また現れて。

 瞬きをするように、一瞬静止した後、鮮血のように、ペンキを掛けられたように、凄惨な光へと変わったスポットライトが何度も何度もその名前の上に飛び散って、やがてまた微かに灯り始めた淡い光と混ざり始める。

 

 

1.『Mirror Mirror』

 舞台に現れた逢田梨香子はとても小さかった。ぼんやりしたスクリーンに変わり視線を浴びるその身体は、人形であると錯覚してしまいそうなほど華奢すぎた。しかし、アシンメトリーの黒いドレスから無防備に露出される、想像していたよりもしっかりとした艶やかな脚線と白く透き通るような肩の丸みの放つ危険な光から感じる生気が、同時に強烈に彼女が人間であることを主張していた。

 曝け出された柔肌は、その瞬間あの場所で何よりも異彩を放っていた。薄暗い会場の視線を集約するスポットライト。その下でうねる黒いドレスの端々から垣間見える唯一の白色。しなやかな下腿部とは対照的に、大胆に露出されたその太腿は引き締まっていると同時に女性らしい膨らみを帯びていて、あの身体を支えるための筋肉がぱんぱんに詰め込まれていることが一目見て分かる程だった。

 ハムストリングス、と言う名前がついているらしい。あの健康的で、そしてライトの下で光を反射しているかのような彼女のそれを的確に言い表しているような響き。強靭なイメージもありつつ、美味しそうで、つい触れてみたくなってしまうような邪な気持ちにさえなるような。

 

 小さな彼女の両脇、段の下。構えた得物で私たちの良く知っている攻撃的な旋律をかき鳴らす4人のバンドマン。小さな彼女が悶えるように身体を揺さぶる。重低音を従えるように歌い出す姿は、いつしか圧を放っていた。

 

 圧迫、誇示、支配。

 

 エロティックな衣装で誘ってくるかのように歌い上げる姿と、よく知っているはずなのに聞いた事のないほどのパワフルな歌声。

 準備体操でも前座でもない。これから自分の好きな曲を待つのでもない。メインとなる曲への繋ぎでもない。これは始まりだ。挑戦状、宣戦布告だ。全ての瞬間がクライマックスだ。

 既存のライブ楽曲どの曲とも違う、全く新しい世界観、全く違った表情で披露された『Mirror Mirror』は、確実に会場を驚愕させていた。

 

「おいで」

 

 知っているはずだったのに未知の世界に誘われて。さあ、これから『for…』へと続くのだろうと、きっとこの時私はそう思い込まされていたんだ。

 

2.『アズライトブルー』

 重低音、鉛色の世界の後。唐突に流れ始めた爽やかなサウンド。2019年8月に披露された時の真っ白な衣装とは対照的に、黒のドレスを身に纏った今の彼女の姿は、まさに黒く濁った青、青藍そのもの。でも、無色透明だったあの時よりも、自分の色を見つけた今のアズライトブルーのほうが彼女らしいと思った。

 

 『アズライトブルー』。1年前に彼女が披露したとき、1フレーズだけ歌えなかった箇所があったのを強烈に覚えている。心臓が止まるような思いがして、必死になってブレードを振っていた夏の日。あの頃は、本当の意味でまだ彼女の事を信用できていなかったのかもしれない。緊張する人。気にする人。不安な人。まだそんなイメージの残る彼女をハラハラしながら見ていたから、ミスしてしまうことが怖い。歌えなくなってしまうかもしれない。やっぱり、実際に見ていないとはいえ、Aqours1stであった出来事は知っているから、どうしても頭がよぎってしまう。そんな時期に披露された楽曲だった。

 

 そんな背景があるこの楽曲。歌い出しから格段にレベルアップしていた。終始笑顔で楽しそうに歌い上げる彼女からは、頼りなさよりもむしろ余裕を感じるほどに完成されていたパフォーマンス。あの日のリベンジとでも言わんばかりに披露されたこの曲を前に、もうハラハラしながら見守るような人はいなかったはずだと思う。

 

 

3.『REMAINED』

 逢田梨香子は、ネガティブなイメージを払拭しただけで終わらなかった。今は声はだせないけれど、私の曲はゆったりと聴けるものが多いから、との前振りから階段に腰掛けふともも足を延ばし、ゆったりとしているはずの曲を歌い出した。

 

 歌が上手い。声の圧がすごい。なんだこれは。

 

 『Mirror Mirror』や『for…』のように激しい曲なわけでもなく、コントラストのように悲痛な曲、ブルーアワーのようなしなやかな強さを秘めた曲というわけでもない。聴いていればリラックスできるような、そんな柔らかめの曲だったはず。それなのに、座っている姿勢のどこからそんな声がでるのか分からないぐらいの圧力で、『REMAINED』はパワフルに歌い上げられる。

 ヘヴィメタルやロックを聴いていた記憶はないのに、何故か音がぶつけられてくる。球速300kmのスローボールが迫ってくる。

 

 先ほど、私はかつて彼女に対して不安さを抱えていたと述べたが、ここで認識を改めさせられざるを得なかった。訂正しよう。あの人はなんか気が付いたら化け物になっていたので、暴れてるな~って安心して見てられますね…。

 

 

4.『光と雨』

 元から物語性の強い曲だった。アルバムでは『ME』の一つ前に配置され、ガラッと雰囲気を変える楔となる曲。この曲が来たという事は、ここから何かがガラッと変わってくるのだろう。そういった予感はやがて、確信へと変わっていった。

 

 立ち上がって笑顔で歌い出すと同時に、バンドの演奏に合わせて会場中に光の粒子が舞い始める。それはまるで、彼女が波導、オーラを発しているようでもあり、また彼女の元にエネルギーが集まってきているようでもあり。進化のエネルギーを吸収しているようでもあり、進化のエネルギーが溢れ出しているようでもあり。

 やがて曲はCメロへと移り行こうとする時。間奏でくるくると踊る彼女は、まるで何かを払い落とすかのようで。そいえばこの衣装、ふとももしか見てなかったけどすごく動きやすそう。

 終始笑顔で歌いきった彼女は、アウトロが続く中、満面の笑みを見せつけるように舞台を去っていく。やるべきことはすべて終えた。打つべき布石は打ち終えた。盤面は整った。

 

「大丈夫、またもし逢えたとしても私はこの道を選ぶ」

 

 この言葉は、きっとその総仕上げ。物語の最後の鍵。

 

 

5.『Tiered』

 『Lotus』のメイキング映像が編集されたような映像が流れ始める。映像は少し朧気で、暗い闇の中の記憶のように靄が掛かっていて。記憶の断片のように、映っては消えていく彼女の作品の一コマに対して、何か懐かしい気持ちになったのを記憶している。本当はもっと早い時期に開催されていたはずのこのツアー。本来なら、この映像は記憶に新しい状態で見ることになったはず。

 遠い過去の記憶となりつつあるその映像が終わり、ライブは後半パートへと突入していく。

 

 舞台の上に、白いドレスを着た女神が現れた。ロングスカートの裾を持ち上げて、一歩一歩階段を下りてくる。ドレスから露出した肩の丸みや、チラチラと垣間見える足元、そして薄いレースから透けて見える腕、スカートを持つ手先。

 

 ときに、古語における「逢ふ(あう)」という表現を御存知だろうか。平安時代、男女の結婚の作法は現代とは全く異なるものだった。

 当時、貴族女性は権力闘争の道具だった。貴族にとって、自分の娘を内裏に奉仕させ、そこで貴族や天皇の目に留まれば外戚として実権を握る事は出世するための大チャンスだった。だからこそ、どこの馬の骨とも知らぬ男に目を付けられぬよう、娘は奉公に出せる年になるまで箱入りで育てておくものだった。

 そんな箱入り娘だったからこそ、親族や侍女以外の人間の目に触れられないよう屋敷の奥に隠されて育てられてており、仮に何かの拍子で男性に見つけられ言い寄られたとしても、基本的には会話は御簾や几帳を隔て、中継ぎを介してのもの。

 だから、実際に「逢ふ」という事は、それはそうした硬いガードを乗り越えられるほどの関係となって初めて起こり得る事。つまり当時の人にとって、「逢ふ」とは結婚するという事を意味する言葉だった。

 実際、女性が御簾と几帳の中に男性をひとり通すという事はつまりはそういう事でもあり、色々な意味で「逢ふ」はロマンティックでデンジャラスな言葉である。

 

 閑話休題

 私はこの公演に来て、幕に阻まれることのない彼女の姿を目撃しているわけなのだが、これは果たして「逢ふ」という事なのだろうか。「あなた以外の誰の色に染まる事もありません」と主張する白いドレスを着て私の目の前に姿を現した彼女は、今どこを見て歌っているのだろうか。

 彼女は今、私と「逢」っているのだろうか。これは逢瀬なのだろうか。この会場は御簾と几帳によって外から隔てられ、舞台の上では誰かにその身を捧げるかのように歌い上げるその姿。

 一体彼女は誰のものなのだろう。私の手はドレスを紡ぐためにあるのか、それとも彼女に触れるためにあるのか分からない。その切なそうな表情が誰に向けられたものなのかは分からない。

 それでも私はその時、逢田梨香子という一人の女性に逢いたくてたまらなかった。

 

 

6.『Dearly』『ME』

 昼公演では『Dearly』、夜講演では『ME』が披露された。

──「ME」のあとは、デビュー作の収録曲「FUTURE LINE」、そして大切な人への感謝が込められた新曲「Dearly」が続きます。温かくて優しい気持ちになれるような流れですね。

「Dearly」は普段大切な人に伝えられない感謝を、手紙につづりながら伝えているような曲のイメージです。リズム的にも歌いやすかったですね。

──歌うときにどういった感謝を込めましたか?

この曲はファンの方々や、普段お世話になっている人のことを考えながら歌いました。この曲を通して、感謝の気持ちが伝わればいいなと思っています。リスナーの方も、ぜひ大切な人を思い浮かべながら聴いていただきたいです。

 

逢田梨香子「Curtain raise」インタビュー|私のステージの幕開け (3/3) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

 『光と雨』で見せた、自信に満ちた姿で、安定した歌声で歌い上げられた『Dearly』。ああ、私たちに対して歌ってくださっているのだなと。こういう曲でしっかり魅せてくれるのも本当に嬉しい。ただの馴れあいじゃなくて、そうした関係性をしっかりと彼女の作品として落とし込んで披露してくれる。「逢」の字を冠する人の舞台だなと実感した次第である。

 

 夜講演は、ここは『ME』と入れ替わり。入れ替わったことで、この二曲のここまでの道を辿ってきた今現在の逢田梨香子自身の想いを歌った曲としての共通点が強調されている気がした。

 さて、この曲については素人目でも音の不安定さが垣間見えたりと、少なくとも『REMAINED』や『Dearly』のような安定感は無かった。地声と裏声の境界が曖昧だったり、唾が絡む音、息を吸う音がはっきりと聞き取れたり。直前の『Tiered』では全くそんな不安定さは見せなかったので、あれ?と思って、少し心配になったのを覚えている。そう、この時何が起きているのかを理解するまでは。

 

 1サビの「新しい私が見えてきたの」の音の切り方に既視感を覚えた。音を伸ばそうとするのではなく、そのまま自然に消えていくような、歌っているというよりまるで語っているかのような切り方。そして、歌いながらゆっくりと舞台袖へと歩いていく彼女の姿、観客の方に視線を送るのではなく、明らかに自分の世界に入っている彼女の姿を見て、その既視感は確信に変わった。

 

 この歌い方は『Pianoforte Monologue』の歌い方だ。

 Guilty Kiss1stLive。 あの日も、一曲だけ明らかに違う歌い方だった。もっとパフォーマンスとして高レベルなことができるはずで、むしろ彼女のパフォーマンスとしては最初違和感を感じるほどだった。音が伸びていないとかそういう次元ではなく、そもそも伸ばそうとしていない。さらりと歌えるはずなのに、そもそもさらりと歌っていない。

 でも、トロッコで会場を回る姿を見ていると、間奏こそ客席に手を振っていても、歌っている最中の彼女は全く客席を見ていない事に気づく。完全に自分一人だけの世界に入り込んでいて、それはまるで桜内梨子がひとり淡々と言葉を紡いでいるかのようで。

 

 物語に忠実に考えるなら、本来『Pianoforte Monologue』は、少なくともあの段階ではファンの前で披露されていない楽曲だ。2020年2月時点ではまだソロコンサートは行われておらず、モノローグは文字通りモノローグのまま。劇中の桜内梨子がピアノの前でひとり漏らした言葉たち、たったそれだけのもので、披露されなければ楽曲ですらなかったはず。

 だからこそ、彼女の想いを吐露するこの楽曲は、歌であるが歌ってはいけない。歌唱であるが歌唱では不十分だったのだ。だからこそ、パフォーマンスとして披露する事ができたはずの逢田梨香子は、『Pianoforte Monologue』を「歌うように語るする桜内梨子を演じる」事で表現したのだった。

 それは、私たちに届けるためのパフォーマンスではなく、自分自身で反芻するためのモノローグ。全ての言葉、全ての音を一つ残らず大事にして、一言ずつ噛み締めるかのように演じるその姿は、きっとあのあの物語のどこかであったかもしれない、桜内梨子の物語の中の大切な一幕で。

 

 

 確かに、今回は桜内梨子役の彼女を見に来たわけでもないし、この曲は逢田梨香子名義。特別なコメントがあるわけでもないし、歌声だって桜内梨子の声で歌っているわけでもない。でも、その歌い方、表現方法は紛れもなくひとりで言葉を紡ぐ桜内梨子を演じていた時のものだったのだ。

 

 言葉の意味が変わっていくのを感じた。例えば、「都会の海は果てしなくて」。今まで、この曲の事を素直に彼女のパーソナルな部分を描いたものとして捉えてきた。でも、東京出身ロサンゼルスからの帰国子女であり、渋谷に事務所がある彼女のパーソナルとして捉えたなら、「都会の海」という表現は実は不思議な表現だ。比較対象がないのである。

 都市に対して「都会だ」と感じるのは、対になる概念を経験しているからである。少なくとも、東京とロサンゼルスで育った人がわざわざ「都会の」という表現をする事は少し不自然で、この部分に関しては、彼女の表現と言うよりは作詞者である岡嶋かな多氏の表現だなと思っていた。

 でもこの瞬間、『Pianoforte Monologue』の歌い方をされることで、「都会の海」という表現が途端に逢田梨香子の表現として覚醒した。そう、「そばで見守っていてね」も、「キミとした約束」も、きっと彼女の人生を語る上で絶対に欠かせないあの子を前提としたものだったのだろう。だって、「これからは少しずつ”証明”するよ」なんて、桜内梨子に対して逢田梨香子から贈るのにこれ以上に適した言葉はないはずだから。

 

 歌いながら舞台袖までやってきた彼女は、ゆっくりと折り返してマイクスタンドのある真ん中へと戻る。スカートの裾を引きずりながらも、一歩ずつゆっくりと踏み出しながら。私たちではなく、ステージの誰もいない場所を見つめて。

 それは、逢田梨香子桜内梨子だけの世界だった。彼女の眼に桜内梨子が映っていたのか、それとも彼女自身に桜内梨子が宿っていたのかは分からない。それでも、『ME』に関しては、私たちはその世界を覗いているだけで、そこで起きていたのは、逢田梨香子が、きっとあの世界のどこかにいる桜内梨子に対して語り掛けていた、もしくは自分の中の桜内梨子を抱きしめていた、そんな不思議で、特別な現象だったことは間違いないだろう。

 これまで、逢田梨香子自身の表現で観客を圧倒して、彼女自身の声で私たちを魅了して、そうした後に披露された楽曲だったからこそ、桜内梨子の歌い方で、それでいて逢田梨香子の声で宣言した

「私らしい私で愛おしい毎日を生きていくよ」

の一節は、本当に説得力があるものだった。

 

 そして、その言葉に添えられた彼女の美しいコーラスが、彼女の声の中で私が一番好きな声だ。

 

 

7.『ステラノヒカリ』

 ウェディングドレスは、ロングスカートが着脱式らしい。動きやすうようにスカート部分(トレーンって言うそうです)を外しふとともとパンプスを曝け出した状態で、振り付けのレクチャーが始まる。

 そんな軽装の女性声優を合法的にジロジロ眺めていいんですか!?と思ったが、そもそも私は彼女のライブを見に来ており、先ほどからずっと彼女を凝視していたことを思い出した。

 

 この曲は曲調も相まって、彼女の美しさや高潔さ以上に可愛さが強調されていた。ファンと一緒に同じ振り付けを踊る姿はとても楽しそうで、私たちと別の世界に住むアーティストという面を持つと同時に、等身大の一人の人間なのだなと実感した次第である。

 また、かなり大きめの振り付けだったにも関わらず、声も乱れないし全く呼吸が乱れる気配も見せないあたり、一見無邪気な表情の裏には基礎能力の高さがはっきりと見て取れる。

 

 曲の終盤、階段を上ってステージの頂上に立ち背中でバンドを煽る。アウトロのアドリブを溜めるようにしばらく演奏した後、彼女は突然振り向いて歌い始めた。

 

8.『for…』

 2019年秋頃にリリースされた時、この曲は少し背伸びをしている印象があった。他の曲と比較して明らかに高いキーの冒頭だったり、あまり彼女自身のイメージとマッチしていないMVだったりと、この曲だけは「逢田梨香子の曲」というよりも「逢田梨香子が歌っている曲」という認識だった。既に存在する世界観に彼女のほうが合わせに行って表現しているような、ある意味では役者としてあるべき姿でもあるそんなイメージ。

 でも、作品に寄り添ってその世界観を表現することに関しても彼女はしっかりと魅せてくれる人で、その甲高い出だしもミニライブの際はしっかりとパフォーマンスとして完成されたものとして見せてくれたし、MVだって後にLotusがリリースされた後に見ると、また違って見えてきたりもする。

 

 

 さて、そんな楽曲だったが、今回のライブでは明らかに今まで私たちが知っている『for…』とは別物の『for…』が披露されていた。

 まず、明らかにキーが低い。出だしの「まだ誰も見たことない夢の中で」の所で、一つ前の『ステラノヒカリ』から声を切り替えていない。今『for…』を歌い上げる声は、私たちの良く知っている『for…』を歌うために出す声ではなく、逢田梨香子の世界観を表現するための楽曲を歌う時のいつもの声だったのである。

 

 私は夜の部が始まる前、連番者と話しながらひたすら『for…』を改めて聴きこんでいた。昼の部でこの曲から逢田梨香子ありのままの声を感じた事。その感覚が間違っていないかどうか確かめるべく、CD音源の『for…』を耳に刻み付けてから夜の部に挑んだ。

 間違いなかった。絶対に声が違う。夜の部だと、『Mirror Mirror』もそうだった印象がある。少なくとも、彼女の歌声を語るのに欠かせない「透明感」が違う。『for…』のために甲高い声を作るのではなく、透明感のある彼女自身の声で『for…』を歌い上げていたのである。

 

 歌い手が変われば当然曲も変わる。

 ライブの序盤に黒の衣装で披露するのではなく、終盤に白の衣装でこの楽曲が披露されたことは、彼女の中でこの曲の立ち位置が変わっていることを示しているのかもしれない。少なくとも、CD音源よりも透明で伸びやかな声で披露された『for…』に、私は少し優しさや温かさを感じたりもしていた。

 

9.『FUTURE LINE』

 『ステラノヒカリ』が可愛いに特化しているなら、こちらは可愛いと美しいのハイブリットと言えるだろう。無邪気に歌う姿は確かに可愛いのだが、時折見せる切なそげだったり必死な表情は、心臓がギュッと掴まれるようにドキッとするものだった。

 

 何度も歌ってきた曲で、歌っている彼女自身も、それを見ている私たち自身もどこか安心感があるのだろう。無邪気な笑顔の合間に見せる迫真の表情も、それが彼女の表現であることが分かっているから、「がんばれ!」ではなく「顔がいい」と思う事ができる。

 彼女自身もそれを分かっていてやっているのだろう。思いを込めるように悲痛な表情をした直後に、「どこなの?どこなの?」と手を目の上に当ててキョロキョロたり、客席を指さして見せたり。

 

 この曲は、それぞれ好きな色のサイリウムを振る曲として扱われており、おそらく彼女の楽曲で一番客席がカラフルになる楽曲だと思う。私はリリース当初からずっと青を振り続けている訳だが、昼の部では間奏で舞台の上の彼女と目が合ったのを覚えている。

 やはり暖色の多い中寒色が目立つのだろうか。それとも、彼女自身の好きな色だから探してしまうのだろうか。いずれにせよ、青を振っていた私と目が合った時の彼女の嬉しそうな表情は、とてもかわいくてきれいで、むねがどきどきした。

 

10.『Lotus』

11.『ORDINARY LOVE』

 この二曲に関しては、夜の部に絞って二曲纏めて書くことにする。なぜかというと、夜の部のこの二曲はパフォーマンスのクオリティが他が霞むレベルで突き抜けていたからである。

 

 昼の部では、客席に訴えかけるように歌い上げていたこの二曲だが、夜の部では途中からその目線に変化を感じた。そして、『Lotus』の2番辺りからそれは確信となった。おそらく彼女は曲中でスイッチが入って、自分だけの世界で思うがままに表現を爆発させているのだと。

 音の圧がそのまま感情として迫ってくる。胸が締め付けられるほどに、その歌声から悲痛さを感じた。2曲とも、切なさや悲痛さを孕むような曲ではあるのは知っているけれど、その曲の悲痛さや切なさが自分が体験したかのように押し付けられてくる。

 よく歌声に感情を乗せるのが上手い人だと評される彼女だが、あの時は歌声に感情を乗せるだとかそんなレベルの話ではない。そこにあったのは、『Lotus』の世界観そのもの、『ORDINARY LOVE』の想いそのものだ。

 

 例えば、『Lotus』で描かれる切なさを描くのに、「切ない表情」をすること、「切なそうに歌う」事は想像がつく。でも、言ってしまえばそれは切なさの結果でしかない。切ないから切ない表情が産まれる。切ないから歌声は切なくなる。

 演技とは、ある意味では結果の模倣であり、自分を偽る事である。仮に切なさの中にいなくても、切なさの中にいる人の歌声や表情を見たり想像したりすることで、彼らの表情や歌声をコピーすることはできる。

 だが、舞台の上にいる彼女の表情は確かに切ない表情ではあったし、切なそうな歌声はしていた。でも、あのパフォーマンスの説得力を生んでいたのがそれだけだったとは思わない。

 

 きっと、あの瞬間は、彼女は偽りではなく本当に『Lotus』の世界観、『ORDINARY LOVE』の想いの中にいたのだろう。『Lotus』では周りが見えない程に、『ORDINARY LOVE』では彼女を見つめる私たちを「あなた」にして、完全に世界に入り込んでいた。

 舞台の上で披露される物語は、多くは誰かの手によってつくられたフィクション、嘘、偽物である。でも、それを私たちが説得力のあるものとして受け取る事ができるのは、そこに本物があるから。

 

 『ORDINARY LOVE』の時、彼女は客席を見て、客席に視線を送っているはずなのに、冗談とか誇張表現ではなく一度も目が合う事なかった。でも、確かに客席を見ながら歌っていたし、私も彼女の顔をずっと見ていたはずだ。

 これは完全に推測ではあるが、きっと彼女の目に映っていたのは私たちファンではなく、『ORDINARY LOVE』の世界観の中の「あなた」だったのだろう。それはきっと私たちの事でもあるから、彼女は客席に向かって歌う。でも、彼女はあの時完全にその世界の中にいるから、その視線の先にいるのは「客席にいるわたし」ではなくあくまでも『ORDINARY LOVE』の世界観の中の「あなた」だったのかなと思っている。

 

 ここの言語化に関しては、完全に伝わっているとは思わない。むしろ、言語化できないものを見せつけられて戸惑っていたというのが正直なところである。何もわからない。ただ、自分の理解を超える物を見せつけられて言葉が出てこない。何とか1か月以上足掻いてはみたものの、記憶の鮮度が落ちていく中これ以上正確に伝えられる自信はない。それでも不十分だという自覚はある。

 ライブ直後、連番者と一言も会話をせずに会場の外に出て、しばらく経って出た一言が「すごい」だったのを覚えている。

 

 でも、私が逢田梨香子を追いかける理由は、こうした言葉で説明できないもの、理解の範疇を超えた演技、パフォーマンスが見たいからである。むしろ、そうした言葉で言い表せないもの、言葉だけでは理解が追い付かないようなものを描くのが表現であり、作品の最大の価値だと思っているので、今回のライブでも彼女はしっかりとそうしたものを見せつけてくれてとても嬉しかったし、改めて着いてきてよかったと思った次第である。

 

 

 

 

 

 

 彼女を追いかけている人はたくさんいる。ファンの在り方、一番魅力に感じるポイントは人それぞれだ。そんなたくさんの人たちの中で、ライブをみてこの記事を書いた私の価値観に照らし合わせて書くなら、逢田梨香子はとても魅力的な作品やパフォーマンスを見せてくれるアーティストだ。この人についていけば、きっと自分には想像もつかない表現を見せてくれる。

 その期待と確信をより強固なものにすることができた。見に行って本当に良かった。