#てつがくのドンカラス

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ブルーアワー ~世界が逢田梨香子に染まる時~

 

 最初聴いた時、歪だと思った。それも作為的なものだとすぐに確信した。だって、これは逢田梨香子さんの曲だから。

 

ブルーアワーblue hour)は、日の出前と日の入り後に発生する空が濃い青色に染まる時間帯のことである。元々はフランス語のl'heure bleueに由来する。

ブルーアワー - Wikipedia

 

音楽作品は、歌声と、言葉と、楽器等様々なものが互いに上手く引き立て合って構築される。オーケストラに指揮者が必要なように、曲とは一つの完成形を目指して一か所に纏め上げられるものだ。

 だが、この『ブルーアワー』、とても歪だ。例えば、文章構造的な切れ目だったり、1フレーズの音の数が一番と二番で全く異なっていたり、「知らないところまで」「境界線を消し去って」「何だって」が、少し無理矢理曲調に当てはめたような歌い方になっていたり。

 

 曲が先にできているのか、歌詞が先にできているのかは明かされていないけれど、私には確信がある。この曲は、曲が歌詞に合わせている。少なくとも、歌詞を曲に合わせて弄るといった事は一切していないと思う。

 作曲と編曲を手掛ける市川淳氏は、『ブルーアワー』というキーワードを貰って曲を作り始めたとの事なので、もしかしたら歌詞と平行だったのかもしれない。それでも、その曲は歌詞に合わせて作られたものだという事は間違いはないだろう。

 

 

 

 さて。そうやって大事にされた歌詞で構成された曲を読み解いていこう。

 

 

 

風が吹いた 何か変わった
私は私のままで
見慣れた景色眺め
誰もいない独りぼっち
夜明けが綺麗なだけでいい 他には要らない

 

まず、注目したいのが「何か変わった」。あまりにも直接的。この段階だと、まだ何も伝わってこない。曲の序盤だから、読み取るべき文脈がない。こういう、文脈で意味を付与するような言葉を曲の頭に配置する事は、創作の表現としてはあまり評価できるものではない。基本的に受け取り手は直線状にそれを受け取るので、その時点ではまだ意味を持ちにくい表現に遡って意味を与える事はなかなかの悪手ではある。

 

 だが、そんなことはスタッフさんたちのほうが私たちなんかより分かっている。分かっていてそのまま作品にしているのである。

 逢田さんのファンの中には、その真剣さや誠実さ、内に秘めた静かな熱さを理由に追いかける人たちがいることは重々承知の上、誤解を恐れずに言うなら、私を含めたファンの多くが彼女に対して魅力に感じているのは、彼女が生きているだけで面白い人である事だ。逢田梨香子であることに価値があるのである。同じものを見ていても全く違うとらえ方をするし、その世界観は私たちの理解の範疇を超えた思考回路で構成されている。

 今回は逢田さんからのプレゼントだから、その唯一無二の世界観を壊さないためにも、その言葉には一切の手を加えないほうがいい。そういった判断だろう。だとしたら、僕がこうやって歌詞の解釈を試みようとする行為ってナンセンスなんすよね。

 

 

美しいほどに切なさ連れて
瞬くように消えてしまうけど
心もとないこんな夜でさえも
照らした青が私を生かすよ 

  

 美しいほどの切なさは一体何によって連れられてきたのだろう?「夜」だと、「消えてしまうけど」の逆説の位置がおかしくなる。ネガティブな言葉の後に逆説がつくなら、直後にはポジティブな言葉が置かれるはず。だから、「心もとないこんな夜でさえも」は挿入句と考え、これらは「照らした青が私を生かすよ」に掛かっていると考えるのが妥当だ。

 同じ個所に掛かっている「心もとないこんな夜でさえも」を一旦無視して、「美しいほどに切なさ連れて瞬くように消えてしまうけど、照らした青が私を生かすよ」

 

 こうなってくると、タイトルと合わせて一気に曲の解像度が上がります。「照らした青が私を生かすよ」。美しくもある切なさを感じさせる存在を、私たちは既に知っているはず。

終わらないで もう少しだけ願うけど 

遠い先でいつの日か知るだろう

永遠の中にある、切なさを

 むしろ、終わりあるからこそきっと愛おしいのではある。瞬くように消えてしまうという表現からも、『Lotus』で描かれたような、いつか終焉が来ることを受け入れながらその中に価値を見出そうとする姿勢が『ブルーアワー』にも色濃く表れている。

 

 

 

退屈だと誰かが言った
日常がただ欲しかった
誰にも知られぬように
夜空に書いては消した
どこまで君も同じ夜を過ごしているかな

  「日常がただ欲しかった」の部分、流石にそういう事でしょう。

 この部分、1番の歌詞と対比すると、強烈な無念の想いが隠されている気がする。現在の例のコロナのアレのアレがアレのおかげで、延期となってしまった1stLIVETOUR。「ありきたりな日常」だったなら。何かが変わってしまった世界。絶対一人にしないと誓った人とも会えない、同じ夜を過ごしている事を想像するしかない。

 1番の「夜明けが綺麗なだけでいい」という言葉。「夜明け」「始まり」という言葉と共に歩んできた彼女の『Curtain raise』が未だ閉じたままであることを考えると、この夜明けという言葉を文字通りに受け取ることは、果たして。

 

 

 

冷たい空気 群青にじんで
消えない情景 あの頃のまま
必然のように 導かれるように
何度もこの場所戻ってしまうよ

 

 群青。濃い紫味の掛かった青。この色も私たちは知っているはず。そして、その色は、自分自身を無色透明と語った彼女の始まりの曲たちの中で「あの頃」「この場所」(しかも「この場所」はもう無くなることが決まっている)で歌われた曲でもある。

 

 

 ここまで。私たちの知っている逢田梨香子概念が頻出する中に、新しいものをピックアップしてから大サビに入っていこう。

 まず、「私を生かすよ」。この曲の核。儚く消えてしまうがそこに価値があるLotusらしさを持ちつつ、まだその意味ははっきりしないブルーアワーを受けるもの。

 そして、かつて彼女が歩んできた道の中には、変わってしまった世界の中で消えてしまったものがあるという事。

 

 

 

このまま遠くへどこか知らないところまで
今日が明日に代わる境界線を消し去って
自由にゆらゆらとはためく鳥のように
この手はなんだってつかめると信じようもう一度

 

美しいほどに切なさ連れて
瞬くように消えてしまうから
心もとない今日にさようならを
新しい明日を生きるよ 何度も
私を生きるよ

 過去に、「カラーパイ」に基づいた考察として、私は彼女が「青い」人だと唱えたことがあるが、彼女は思っていたより青い人だったようだ。

darkphoenix505pianoles.hatenablog.com

 

 

 Lotusの時の事。いつかはやってくる終焉と向き合い、その中で終焉を迎えた者たちを自分の記憶の中で永遠の存在として刻み続けるその姿に、彼女の所属するAqoursを感じた方は多かっただろう。

実際の所、『ラブライブ!』や『ラブライブ!サンシャイン‼︎』シリーズに触れてきた方々にとって、「今を大切にする」という概念にある程度親しみを感じているのではないのだろうか。どちらも「限りある時間の中に今を精一杯生きて、今を大切にしよう」というメッセージが強く伝わってきて、また「Lotus」にある「想うほど遠ざかっていくこの瞬間 壊さぬようにそっと誰かへ繋げ歩こう」という歌詞は、『ラブライブ!サンシャイン‼︎』劇場版にあるとあるシーンを思い出させてくれたーーAqoursが浦の星高等女学院の校舎の前に立ち、過去を惜しむ他の8人に対し、千歌ちゃんが「大丈夫、だって全部ここに残っているから」と笑うシーンを。そしてその結果、Aqoursラブライブ!大会を優勝したことによって、その存在や浦女、そして沼津がAqours以外の方々の心に残り、さらに劇場版の最後に登場する二人の女子はその伝承を受け、聖地とする場所で始めたいと願った。

有限の中に無限を貫く「再生」の歌ーーLotus - 林檎好きの戯言ログ

 

5年間そこに所属してきた逢田さん自身、その影響はとても大きいものだと思う。だからこそ、今回のこの歌詞のこの部分にAqoursらしさを感じても、それは少なからず必然性を孕んだものではないだろうか。

 

f:id:Darkphoenix505pianoLes:20190331223227j:plain「終わりにしなければいいんじゃないかな?」

 

 「今日が明日に変わる境界線を消し去って」

 最初は理解に苦しんだ箇所だが、聴きこんでいくうちに最後の最後、「新しい明日を生きるよ”何度も”私を生きるよ」の「何度も」という言葉。Aqours黒澤ルビィが鹿角理亞に伝えた事は、終わりと始まりが表裏一体である事と、もう一つ。

 「終わりが来る」事は避けられなくても、「何が終わりなのか」「いつ終わりなのか」は視点によって異なるという事。視点によって異なるという事は、自分自身が変化すればその解釈も変わるという事。Aqoursは、「Saint Snowの終わり」自体を止めることはできなかったが、終わりのタイミングとその意味を変えて見せた。

 

 逢田さんも、変化していく世界の中で、自分自身がその場所に留まらないことで、変化の意味を変えようとしている。

 遠くへ、知らないところまで飛んでいこうとする事と、境界線を消し去る事。境界線を消し去る方法は、変わった瞬間を一点にしないこと。変わってしまった世界の中同じ場所に留まり続けていたらいつかはやってくる今日の終焉、今日と明日の境界線は必ずやってくる。でも、逢田さんの生きる世界は、この青くて回り続けるこの星の上だから。

 

今日と明日の境界線を消し去る事、それは自分自身が常にその境界線の上を飛び続ける事。日の出と日の入りという、明らかな区切りの瞬間であるブルーアワー。昨日から今日、今日から明日への区切りがつかない青の時間に対して、あの人は時間じゃなくて場所のイメージを持っているのかもしれない。

 

 「自由にゆらゆらとはためく鳥」。ゆらゆらという表現がとても斬新だが、すごく逢田さんらしいと思う。その鳥は憧れの象徴じゃなくて、紛れもなく彼女自身の姿だから。先を行く鳥じゃなくて、刻々と移り行くブルーアワーの空を追いかけ続ける鳥だから。指先が振るえるかもしれないし、心細いかもしれない。ゆらゆらという形容詞から想像されるその不安定さは、その鳥が何のために飛んでいるのかをよく表している。

 

 

「心もとない今日にさようならを」「新しい明日を生きるよ 何度も私を生きるよ」

 この曲の歌詞の中で一番大事な箇所は「何度も」だろう。これまで、逢田さんはその作品の中で一貫して何かの始まりを描き続けてきた。「踏み出せる」「踏み出そう」というテーマからは離れないものの、それでも無からの始まりから変わらないのではなく、自分自身の表現を更新している方。 だから、「何度も」。それが、アーティスト逢田梨香子を生きるという事だと思う。今までそうやって歩んできた方ではあるが、それをこうしてはっきりと形にしたのが今回の『ブルーアワー』であるなら。「私たちへのプレゼント」という言葉も、もう少し踏み込んで読み取っても大丈夫だろう。

 

 

 Curtain raiseのツアーが延期になったことは、それが「始まり」を意味する以上、もしかしたら、開催されるときはもう始まりの時期ではないかもしれない。延期になって、開催は決定したけれど、全くわからない情勢の中、本当に開催できるかどうか何の保証もない。もっと先に延期されるかもしれないし、中止になったっておかしくない。

 そして、遠い遠い未来に、私たちに日常が戻ってきて、そしてあの人が舞台の上で、これまでの始まりの歌を歌うとき、それは時期を逃したものなのだろうか?その時の逢田さんは、Curtain raiseを掲げられる人なのか?「始まり」の時期からはずいぶんと時が過ぎたんじゃない?

 

 大丈夫。たとえ世界が変わっていったとしても、今日が明日に変わる境界線の上を飛び続けているから。これは、逢田さんがずっと始まりの場所に立ち続けるという宣言。そうやって、自分自身の物語を生きているかというメッセージ。

 この曲の最後に「生きるよ」という言葉が2回連続で登場する。1番の「青」に生かされる立場だった「私」が、今度は「生きる」。重ねて「生きる」。何度も「生きる」。

 今まで何度も描いてきた「新しい明日」を「私」に重ねて。それが「私」なんだと反芻するように。

 

 いつか、それは幕開けだった時からはあまりにも時間が経ちすぎてしまったかもしれないけれど、それでも舞台に立つのは移り行く時の中の青の瞬間を追い続ける鳥だから、それは紛れもなく、私たちがよく知っている、いや、それ以上に確かな幕開けの時なのだろう。

 

 

 

 

 

 私は、昨年のBirthdayEventでは青のサイリウムを振っていたし、既存の曲で黒梨香子や白梨香子が描かれてきているが、割と本気であの人のイメージカラーは青だと思っている。確かに、作品として描かれてきたのは黒や白だったけれど、でも空だって雲がかかれば白くなるし、夜になれば真っ黒。そんな中で、あの人が選んだのはブルーアワーだったし、おそらく、この単語は青という色から連想されたものだと思う。1番の「照らした青が」の青という単語が文脈的に唐突で、それでもこの曲の核心を担っているところから、このフレーズから書き始めたのではないかと思わせたり。

 あれだけ黒や白を強調していたCurtain raiseのLotusも、バズリズムで披露された時は濁った青の衣装だった。でもその色があの曲とあの人に1番似合う色だと思う。

 

 

 ありきたりな日常が壊れてしまった今、心身ともに疲れ切ってしまった人や、輝きを失ってしまった人たちもいると思う。でも、そんな中でも変わらずにやってくるブルーアワーの空に、あの人がずっと描き続けてきた始まりへのエールを感じたなら。あの人の色に染まった空を見るたびに、今まで描き続けてきた世界を思い出せるなら。壊れてしまった日常でも輝きだすのではないかと思う。