#てつがくのドンカラス

それでは皆さん元気よく!不意打ち追い討ち?桜内!得意な技は?タイプ不一致!

なぜAqoursの物語に『Thank you,FRIENDS!!』と『No.10』が必要なのか

 私は、Aqoursの曲のなかで、『未来の僕らは知ってるよ』『WATER BLUE NEW WORLD』に続いて『Thank you, FRIENDS!!』が好きだ。でも、それは「なんとなく好き」でしかなかった。

 

 先日、参加できなかった4thライブを視聴する中で、そこにくっきりとした確かな形が作られた。そして、答え合わせが存在する2年後の現在だからこそ語ることのできるその意味を、カップリング曲の『No.10』にも触れながら読み解いていく。

 

 

 

 

 

『No.10』とはどんな人の事なのか?

 Aqoursを語るうえで、10という数字を抜きに語ることはできないだろう。それが初めて私たちの前に「10」という形として現れたのは、アニメ1期第13話『サンシャイン!』だった。先代への憧れとの決別を誓ったその直後、まるで『私の好きなμ’sに私はいない』先代と対比するかのように、「Aqoursと一緒にステージに立ちたい」人たちが叫んだ言葉が10だった。 2期、そして劇場版(劇場版を根拠にするのはずるいかもしれませんね)でも、Aqoursの物語はグループ9人だけでは完結しなかった。『SUNNY DAY SONG』がスクールアイドルみんなの曲といいながらも結局はμ’sの曲でしかなかったように、*1物語の必要なピースとして必要なのは9人だけだった先代と違い、Aqoursの物語には常に9人と+αで構成されていた。顕著なのはSaint Snowや渡辺月だろう。A‐μ’sは存在しなくとも、Saint Aqours Snowは存在するのである。

 あの日ステージで手を伸ばす千歌と共に立ち上がった10を背負う人々、共に同じ物語を紡ぎあげるために必要だったライバル、そして、輝きと名付けられた主人公の相棒の従妹である、青い星の衛星の名前を持つ者。そして、いつかの未来、かつて9人がいた砂浜で、その名前を引き継ぐであろう、最後の2人。

 あの人たちは、確かに「Aqoursを応援してついてきてくれたみんな」だ。間違いはない。だが、同時にこうも言っている。

私達も一緒に、何か出来ることあるんじゃないかって…

 

新しいグループで新しい雪の結晶を見つけて、姉様やみんなにも喜んでもらえるスクールアイドルグループを作る

 

僕たちも本気にならなくちゃダメなんだ。そのことをAqoursが、Saint Snowが気づかせてくれたんだ。

 

私も、あの人たちみたいに輝きたい

 

 そしてまた、これまで「Aqoursを応援してついてきてくれたみんな」に対して、Aqoursはずっと『君の心は輝いてるかい?』と問い続けてきた。それは呪いだった。『みんなも一緒に輝こう』というその言葉は、応援という行為をそのまま「輝くこと」であると定義づけてしまう。ただカメラの向こう、画面の向こうで彼女たちを観測しているだけだった人たちでさえ、ただの観測者のままでいた者はいなかった。いや、輝こうとせざるを得なかった。

 ラブライブ!は宗教だから。人生観を暴力的に刷り込んでくるコンテンツだから。ステージの上でキラキラと輝く9人は、それが私たちとは全く違う存在であることを許さない。コンプレックスまみれの普通怪獣を始めとした、歪めば歪むほど、腐れば腐るほどに私たちにそっくりなキャラクターは、物語ならではの特別性を要するにも関わらず、その物語は普遍的であり、そして私たちにも成し遂げうるものだと迫ってくる。

 敗北者にすらチャンスが与えられ、傍観者すら奮い立たせたあの物語の中で、ずっとずっと問いかけられ続けた『君の心は輝いてるかい?』。それが披露され、そして「Yes!」と叫んでしまったその時から。サインをしたら契約成立だ。彼女たちの物語を構成するうえで必要とされ、そして彼女たちを追いかける私たちは、応援の形として、「本気になって輝く」ことを求められた。

実際にAqoursの物語には、10人目以降としてステージに立った者がいたことや10を名乗った者がいた事が、それを裏付ける。

『No.10』とは、「Aqoursの輝きに照らされ輝く覚悟を決めた者」を指す言葉である。

 

自分が思う道を進めばいい。自分が楽しいと思うなら全力で楽しめばいい。 「輝くことは楽しむこと。」 そこから生まれた覚悟。覚悟は自分自身への自信。 楽しめばいいんだ。難しく考える必要なんてない。それが自然と自分を強くしているんだってこと。 先のことなんて考えちゃいけない。そして過ぎた時間は戻ってこない。 なら与えられたこの”今”という時間を楽しんでこそ、振り返る時に素敵な思い出として残るだろう。そしてこれからも楽しむという自分自身への自信と希望につながるだろう。

"輝く覚悟"はできているか? - 僕の"いちばん好きな場所"

 

 「輝くこと」とは行動や結果ではない。むしろ、行動の根源にある思考や感情そのものに掛かる形容詞「輝いている」というほうが正確だろう。命を削るような生活の中に一つ信じるものを持ってみたり。輝きという言葉に、自分自身も向きあった人(向き合わざるを得なかったのかも)は決して少なくないはずだ。

合格したら貴女に逢いに行きます。もし合格する前に劇場に行くような真似をしたら、金輪際貴女のファンを名乗る事はありません。

もう逃げないで。進む時だよ、新しい場所へ - 風見鶏の慧眼

 

 文字にすると洒落にならないぐらい重たい事になってきたが、それでも、『No.10』と『Thank you, FRIENDS!!』が披露されたあの場所にいた人たちは、仮に無意識であったとしても、みんな輝いていたのだとも思う。

フェスで田野アサミさんが仰ったように、ライブを目指して毎日を乗り越えて、そしてライブでエネルギーを貰ってまた日常を頑張って生きていく。それだって一つの輝き方。

 『世界は変わらないように見えても、自分が変われば世界は変わるんだ。』その気づきで、少しでも何か見えるものがあったとしたら。ちらりと見えた輝きで、ちょっとでも前を見れたとしたら。

 それは輝いてるのだと思うし、物語で10番目を名乗った人たちと同じものを見ているのだろう。

 「Aqoursの輝きに照らされ輝く覚悟を決めた者」である『No.10』は、生半可な覚悟で名乗れるものではないけれど、でも、名乗るための資格は誰もが持っている。

 

 

 

 なぜ『No.10』?

  そんな『No.10』、もっと広く言えば私たちファンは、それまでラブライブ!として作られたステージの中では存在しているだけだった。確かにキャストに煽られれば歓声を上げるだろうし、パフォーマンスに対して光や声、(あるいはそれ以上)で応えたりする。でも、それだけ。そこにいるのは、唯一無二の存在である「わたし」ではなく、ファンの集団とその中にいる1人であるファンAでしかない。物理的にもそうでしかありえなかったし、ライブとは演者とパフォーマンスを見に行くものだからそれはそうだ。だからμ’sの最初からAqoursの3rdまではずっとそうだったし、だからこそ、この曲のタイトルが発表されたときは、色々な意見が見られたのを覚えている。当たり前である。だって、この曲はそんな今までのライブの在り方を覆すものだったから。

 

 でも、そんな『No.10』は、Aqoursの物語には絶対になくてはならないものだった。なぜなら、Aqoursの輝きとは、常に認識されることによる確認作業と共に描かれてきた、いわば「見出すもの」だからである。

 たとえば、『MIRAI TICKET』に対する内浦の人々、『Awaken the power』に対するSaint Snowのように、Aqoursの輝きは、常に他の誰かに影響を与えることにより描かれてきたし、影響を与えることこそが輝きの証明となっていた。μ’sのように、内在的に「輝いている」ステージを見せつけるのではなく、「輝いている」と認識され、そして認識した者の心境に何らかの変化をもたらすことに価値を見出した。

 

 Aqoursの輝きは見出すものだから、その輝きにはそれを見出す『No.10』からの視点が不可欠なのである

 

 

3rdで描けなかったもの

 さて、そんなAqoursの輝きを描いた物語をテーマに行われたのが、Aqours3rdライブ。『MIRACLE WAVE』や『Awaken the power』、『WATER BLUE NEW WORLD』と、カロリーが高めなこのライブで、唯一、アニメとは違った演出の楽曲があった。『WONDERFUL STORIES』である。

分かった。私が探していた輝き。私たちの輝き。

あがいてあがいてあがきまくって、やっと分かった。

最初からあったんだ。

始めて見たあの時から、何もかも、一歩一歩

私たちが過ごした時間のすべてが、それが輝きだったんだ

探していた私たちの輝きだったんだ

 この一連のセリフは、ライブ中に披露されることはなかった。できなかったから披露しないという事は考えにくいだろう。これは、やらなかったのである。なぜか?それは、現実が作品に追い付いていないからである。

 例えば、『Awaken the power』にしても、舞台装置のためだけに出演させたわけではなかった。一度函館でライブをすることにより、3ユニットと並ぶ一つのユニットとしての地位を現実にも置いた上で、そのうえで「Aqoursにプラス」ではなく、「合同ライブ」という形式を取ったように、ラブライブ!において作中で描かれても、それを前提に舞台を組み立てることはない。作中で描かれたものは、すべて現実でも再構成しようとするのである。

 『WONDERFUL STORIES』についても、その時点であの台詞を舞台の上で再構成することはできなかった。なぜなら、Aqoursの輝きの観測者であり、「Aqoursの輝きに照らされ輝く覚悟を決めた者」である『No.10』は、3rdライブを見た私たちだからである。少なくとも、あのライブが終わるまでは、アニメで千歌が辿り着いた輝きを構成するのに必要な『No.10』はまだ存在しない。3rdライブでラブライブ!のライブが描けるのは「輝いているAqours」でしかなく、それを見た人々がそこから見出したものが、作中で千歌が辿り着いた輝きなのである。

 だから、あの時点では、『WONDERFUL STORIES』はただ輝いている曲として歌うだけ。そこから千歌が輝きを見出す過程は描くことはできなかった。

 

 

4thライブはAqoursの輝きを証明する儀式

 さて、そんな中で、『Thank you,FRIENDS!!』と『No.10』を携えて、4thライブが始まった。

 3rdの直後に、名実ともに『No.10』となった観測者たちが集まった東京ドームは、奇しくもAqoursにとって「初めて見たあの時」の場所だった。

 そしてまた、Aqoursは先代μ’sと同じステージに、同じような情勢で立っていた。紅白の出演も決まっていたし、劇場版も決まっていた。そして、かつてμ’sが『輝いているμ’s』のまま終わりを告げた時のように、既に彼女たちの『輝いているAqours』は完成していた。

 あとは、その輝きに千歌やAqours自身が気づくだけだった。

 

 

 アニメでは、導かれるように学校を訪れた千歌が、浦女の生徒たち『No.10』や『No.2~9』のAqoursのメンバーに迎え入れられ、そしてこれまでの道のりをなぞることでその輝きにやっと気づくことができた。

 だが、現実の『No.10』である私たちは、アニメのように体育館で迎え入れることはできないし、ましてや彼女たちの輝きの証明には成り得るにしても、結局は私たちは消費者である以上、舞台装置には成り得ても舞台装置として依存することはできない。

 ラブライブ!は商品だから、一つの提示される作品だから、『No.10』として説得力のある存在を提示しなければならない。『No.10』を提示することによって、「千歌たちAqoursが自分たちの輝きに気づく」という事をライブという舞台で披露るするために。

 

 

 さて、ではラブライブ!の用意した『No.10』とは一体誰だっただろう?Saint Snowや浦の星交響楽団も、確かに『No.10』として申し分ないだろう。でも、彼女たちの輝きを証明する『No.10』としてもっともっと適任な者がいた。むしろSaint Snowや浦の星交響楽団は、その『No.10』の流れを作るために一役買っていると言ってもいいだろう。

 

 その『No.10』とは、輝きに気づくまでの物語において、最後の『No.10』。そして、プロジェクトラブライブ!にしか描けない唯一無二の表現である『No.10』。それは、『No.1~9』であるAqours自身である。

 

一見矛盾するように見えるが、気づかないまま過ぎていった経験に、後から気づきを得るというのはよくある話だ。例えば、桜内梨子は、自分たちが学校説明会に間に合ったという経験から、奇跡とは証明するものだという事を見出している。

 今回は、そんな気づかないまま輝いている自分(1~9)と、それを輝きだと気づける自分(10)が同一人物で、そして同時に存在するという話。

 

 そしてどうやってそれを表現するのか?簡単である。ラブライブ!のライブ中は、画面とステージ両方にキャラクターの名前を背負うものがいるのである。

 そして、『No.10』のパフォーマンスの最後の最後、ステージ*2にいる9人は、高らかに「10」の数字を叫んだのだ。

 そう、ここから、輝きの証明が始まる。

 

 ここからのAqoursは、輝こうとする者であり、輝いている者だった。輝こうとするものへのメッセージ性の強いエンディング曲は、まさに『No.1~9』から『No.10』へのメッセージ。そして、『未来の僕らは知ってるよ』は、答えを持っている未来の僕による答え合わせ。

 そして、彼女たちが輝きに気づく準備が整えられ、そして、あの時描けなかった「輝きに気づく高海千歌」を描く時がやってくる。

 彼女たちの輝きの奇跡をなぞり輝いている、画面内のAqoursと、そして同時にそれを観測し輝きを見出す、ステージ上のAqoursによって構成される、本当の意味で披露される『WONDERFUL STORIES』。

輝きに気づいた千歌を演じる伊波杏樹さんは、今度こそアニメのように言葉を紡ぐ。初めて輝きたいと思ったあの時のように、輝きを見つめる観測者として。

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みんな私と同じようなどこにでもいる普通の高校生なのに、キラキラしてた。

それで思ったの。

一生懸命練習して、みんなで心をひとつにしてステージに立つと、こんなにも格好良くて、感動できて…素敵になれるんだって

スクールアイドルってこんなにも、こんなにも、、こんなにも!!キラキラ輝けるんだって!!!

 

 ただし、あの時と違うのは、そこで輝いているのが他の誰でもない自分であり、またその輝きを見つめる自分は、それを届かない星だとして見上げるのではなく、まったく同じ高さから見つめているという事である。

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分かった。私が探していた輝き。私たちの輝き。

あがいてあがいてあがきまくって、やっと分かった。

最初からあったんだ。

始めて見たあの時から、何もかも、一歩一歩

私たちが過ごした時間のすべてが、それが輝きだったんだ

探していた私たちの輝きだったんだ

 確かに、自分の輝きに自分自身が気づくためには、輝いている高海千歌をそれに気づくべき高海千歌自身に見せつけるのが手っ取り早いし、一番効果的だろう。しかし、高海千歌はこの世界に一人しか存在しないはずだった。でも、それを可能にしたのは、ラブライブ!という舞台と、『No.10』という外からの視点である。そう、輝きはあの時からずっと胸にあったのだ。その胸の輝きが彼女を輝かせていたことを、『No.10』である私たちは知っている。『No.10』だからこそ知っていたのだ。あとは自分で気づくだけ。それでも、この物語は気づきの物語だから、その気づくべき時を雑に扱ったりはしなかった。

 やっと、その時が来たのである。

 

 

 奇しくも、それが披露されたのは、「輝いているμ’s」でいることに徹した、偉大過ぎる先輩の最後の場所だった。同時にそれは、Aqoursだけでなく、プロジェクトラブライブ!として進化してきた表現の極地であった。単に画面に映る映像と動きを合わせるだけに留まらない、背景や環境などを整えて披露される、心と現象のシンクロである。かつてドームに現れたコンテンツが再びそこに現れた時、まったく成長していないなんてことはあり得ないのだ。

 

 こうして、『Aqours 4th Love Live Sailing to the Sunshine』及び、そのテーマ曲『No.10』により、Aqoursは自分自身を『No.10』として、自分自身で紡いだ物語から輝きを受け取ることができた。

 

 

証明を終えた物語は、その輝きを抱きしめてまた走り出す

 輝きに気づいたAqoursが最後に披露したのは、『Thank you,FRIENDS!!』。『No.10』と呼ばれるすべての人へのメッセージであるこの曲は、直前に彼女たち自身が『No.10』の名を獲得したことで、新たなる意味合いを持ってくる。

 「逢えてよかったな」という言葉は、千歌たちとの出逢いを奇跡だと証明するべく決戦に挑んだ桜内梨子が、出逢いの意味を見つけたことに対する証明となった。それは、ここで彼女がやっと意味を見出す立場になったからである。*3

 そして、ステージの上のAqoursが『No.10』を担当することで、生まれたものがある。

アニメのAqoursの次の物語の名は「Over the Rainbow」。
虹の向こう側。本作における”虹”という単語は”未来”の比喩であった故、Aqoursは”今”を超え、次のステージに向かう。
”今が最高!”という言葉が最後となったμ’sにない、先代が成し得なかった領域なのである。
当然、演者達が次に向かうところも、”未来”なのである。
未来に向かうには、当然”過去”と向き合い、”今”に決着を付けなければならない。

「UTX学園のスクリーンでμ’sを見て心動かされた高海千歌」の物語は、一旦のピリオドが打たれた。
今度は「あの日、永遠となったμ’sに心震え、憧れ、彼女達の夢と意志を継ぎ、ステージに立ち続けてきた伊波杏樹達」の物語にピリオドを打たなければならない。

最初不自然であった11月というライブのタイミングも、こう考えると全て納得がいく。
高海千歌」が未来に向かう前に、「伊波杏樹」の物語にケリをつける必要があったのだ。

 

EN3.Thank you, FRIENDS!!

私が以上のような結論に至ったのは、最後に披露された本曲の落ちサビで、演者がスクリーンに表示されたキャラクタに向かって歌い上げるような動きをしたからだった。
本曲における「FRIENDS」とは、キャスト9人のお互いのことであり、キャラクタ9人のことであり、この「ラブライブ!サンシャイン!!」というプロジェクトを支える全てのスタッフであり、私達ファンであり、そしてなにより、2年半前にここで私達に光を見せてくれた18人のことだと私は信じたい。

 

LAST JOKER(新) 彼女らはなぜ今歌わなければならなかったのか~特撮オタクが語るAqours4thライブのあれこれ~

 

 これから劇場版という未来へと向かう段階で、現実でも一区切りをつけたAqoursは、ここからただ再現するだけには留まらず、「表現されてはいないが確かにそのキャラクターである」領域である「再構成」の段階へと進んでいく。3年生の卒業を乗り越えてAqoursであり続ける彼女たちと、アニメという表現から離れたとしてもAqoursであり続ける彼女たち。同じく新しい輝きへと手を伸ばし始めるAqoursは、ここで自らの輝きを認識し、物語に一端の決着をつけたのだった。

 

 また、『Thank you, FRIENDS!!』が、ステージの上からスクリーンに捧げられたという事は、自らの輝きに気づいた彼女たちからの、輝いている自分自身へのメッセージでもあるという事だ。そして、劇場版はそんな輝きを見つけた彼女たちが、「もっと先へ飛び出す」ための輝きの反芻作業だった。

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千歌「いい曲つけてよ?」

 

梨子「もちろん。一応これでも、毎日音楽の勉強してたのよ?

向こうでも時間のある時、曲を聴きに行ったりして」

 

千歌「そうだったんだ」

 

梨子「私たちだけじゃないよ。

ルビィちゃんと花丸ちゃんは、衣装の参考に生地屋さん覗いてたし。

曜ちゃんと善子ちゃんは、新しいステップ作ろうって頑張ってたし」

 

千歌「そっか。すごいな、Aqours」

 

梨子「いいなぁ、そんなグループのリーダーで」

 

千歌「いいでしょ」

 

 「私は一応リーダーの高海千歌」なんて、自信なさげだった千歌が、自分の仲間たち、そして自分自身の輝きを認め、そして胸を張って自慢できるほどになったこと。それは仲間への『Thank you』が、自分自身の中にある輝きであると確認しているからこその成長に他ならない。確認作業があったからこそ、鞠莉も、千歌も、ルビィも、そして他のメンバー及び『No.10』である理亞や月、浦女や静真の生徒たちもやっと気づいた輝きを少しずつ反芻して、整理して、そしてまた次の物語へと繋ぐことができたのである。

 

 

 

 

なぜAqoursの物語に『Thank you,FRIENDS!!』と『No.10』が必要なのか。それは、彼女たちの物語の中でそれらの二曲が、新しい輝きに手を伸ばすための『確認作業』と『観測地点』の役割を担っているからである。

 

*1:

結局A-RISEも含めて、SUNNY DAY SONGはμ'sとμ'sに共感した名もなきスクールアイドル達によるμ'sの曲だった

SUNNY DAY SONGは進化する。【ラブライブ!フェスに向けて】 - 風見鶏の慧眼

 

*2:本当はトロッコです

*3:

二次創作という形ではあるが、これについての解説にはなるだろう。