園田海未と桜内梨子の違いは、『伝統と格式』を内面化しているか、そのような制約から解き放たれて自由であるかどうかだけである。
今回は、こんな話の派生となります。
1つの物語にもしもの選択肢なんてないけれど、ラブライブ!みたいな同じものを題材として複数の描き手のいるマルチメディアコンテンツは、そんな波が攫っていったような答えが提示される事もある。
例えば。もしもスクールアイドルを始めようとした穂乃果の真剣さが海未に伝わらず、彼女が加入する事なくμ'sが始まったとしたら?
アニメの中で、そんなもしもの話は語られる事はない。何故なら、アニメでは穂乃果の真剣さに海未は心を動かされたからである。
でも、アニメの外、例えば電撃コミックスでは、そのもしもの話が描かれる。始まりの時点で穂乃果の真剣さが伝わらなかったとしても、彼女は結局、きっかけは違ってもその真剣さに心を動かされてμ'sに加入するのである。
何が言いたいかって。
こうやって違う描かれ方をして、もしもの物語の中でも、実は彼女の本質は変わらないという事。結局園田海未は、高坂穂乃果の真剣さに動かされ、高坂穂乃果の不誠実さに怒り、そして、いつだって真剣な目をした人間に寄り添って力になる。なぜなら彼女は
頑張ることが大好きで。
こういう人だからだ。これはどんな描き方をされても揺らぐことのない彼女の役割であると同時に、逆に言えば、これを描くための手段は互換可能である。アニメで絢瀬絵里に寄り添った彼女が、電撃コミックで西木野真姫に寄り添ったとしても、結局はそれが彼女なのである。絢瀬絵里が自分の求められる姿と本心の狭間で悩んでいなかったもしもの世界でも、彼女はまた別の人の本心に寄り添い、その力となることに変わりはない。
電撃コミックはもしもだらけだ。梨子にピアノをあきらめないように言った高海千歌は、「ピアノコンクールなんて出ないでラブライブやろうよ」なんて言うし、物語はまだまだ序盤だけれど、きっと行き着く先は「ここで一緒に笑いあえなかったかも」と歌われてはいるけれど、本来彼女たちの知る由もないその答えを、私たちは知ることができる。
もしも
私たち出会ってなくて知らないままなら
もしも
もしもなんて考えることもできない今は
μ'sもAqoursも「もしも」なんて知らないと歌うし、もしもなんかよりも、今自分たちが立っているこの瞬間、自分たちが辿ってきた道と、その先の未来を歌い続ける。
アニメの園田海未は、少なくとも作中で西木野真姫の悩みに寄り添うことはなかったし、そんな自分のもしもの姿なんて想像だにしないだろう。たとえ、あり得た選択肢、選んだかもしれない選択肢、存在したかもしれない状況でも、彼女たちはそれに思いを馳せることはあっても、そうならなかったことに悔いなどないだろう。なぜなら、「もしも」そうだったとしたら、今の自分があるかどうかなんてわからないから。
一番叶えたかった夢は、叶えられず。
例え、一番叶えたかった夢が叶ったもしもの未来があったとしても、彼女たちは今自分たちの生きているこの選択肢を選び続けるだろう。
余計な話をすると、矢澤にこは高坂穂乃果になれなかったし、小原鞠莉はやっと高海千歌に追いついた。この二人は、ある意味両主人公のもしもの姿と言えるだろうし、きっとそのために生まれた存在だと思う。だが、作中の彼女たちは、自分のもしもの姿がその人であると知ることはない。
でも、選択肢ってことは互換可能だ。確かに、ラブライブ!サンシャイン!!secondseason第三話『虹』のように、選ぶことをそもそも想定していない、見せかけの選択肢は存在する。でも、たいていの選択肢にはそれを選ばなかったもしもが存在する。直接的な形で現れなくても、先ほど述べた『ピアノとラブライブ両方を選ばなかった桜内梨子』という「もしも」を私たちは見ることができる。別に同じシチュエーションから分岐したわけでなくても、それは「もしもの答え」と言える。
スクスタがそろそろ出るという話がある。ラブライブ!フェスも決まった。私は抽選落ちた。誰か連れてって。あれも一つの「もしも」だろう。もしもμ'sとAqoursが同じ時代にいたら?もしも高海千歌が憧れたのが高坂穂乃果でなかったなら?(実際、千歌が恋しているのはスクールアイドルなので、高坂穂乃果という存在は彼女にとって互換可能だろう。)そんな彼女たちの大前提に対する「もしも」の世界で、それでも彼女たちらしくあり続ける彼女たちは、いったいどんな物語を紡ぐのだろう。
初めに園田海未と桜内梨子はほとんど変わらないと述べた。桜内梨子は何の形容詞もない状態のμ'sを見て「普通」と言ったが、もしも園田海未がAqoursを見たとき、彼女はどう思うのだろうか。そんな「もしも」を描けるのが、あのステージであると、私は思う。
虹ヶ咲スクールアイドル同好会は、そんな「もしも」を前提に産まれた。二つのグループの互換可能である選択肢に対して「もしも」を投げかけること。それでも憧れの対象がμ'sとAqoursであるなら、魅かれたのはきっと「もしも」の先でも変わらない、それぞれのグループらしさだと思う。なぜなら、私たちはまだスクスタの「もしも」の答えを知らない。でも、その答えを彼女たちらしいものであるには、それなりの理由が必要だ。「もしも」を描くには、その時彼女たちがどう反応するかの基準が必要だからだ。そしてその基準は紛れもなく、彼女たちらしさであると言える。
また、虹ヶ咲スクールアイドル同好会はグループではない。基本的には個人の集まりで、先代2グループと違い、仲間というよりライバルというのがふさわしいだろう。
ライバル、それは主人公の「もしも」の姿だ。A-RISEは「もしもラブライブに出ていたらありえたかもしれないμ's」であり、Saint Snowは「もしもMIRACLE WAVEで失敗していたらなっていたAqoursの姿」である。虹ヶ咲スクールアイドル同好会には、そうしたライバルが8人もいる。8つの「もしも」が同時に描かれる。
そう考えると、これからスクスタ、ラブライブ!フェス、虹ヶ咲スクールアイドル同好会を見ていく中で、注目すべきキーワードは、選択肢や状況を互換可能なものとして見た上での「もしも」なのかもしれない。
いずれにせよ、これから展開される「絶対にありえなかったもしもの世界」で、私の愛する彼女たちがどんな姿を見せてくれるのか、とても楽しみだ。